道ログ2

群馬県在住のおじさんがブログを書く

問い詰められると黙る。あと、俺の経験値

   「なぜいまどきの大学生はバカなのか」

 を読んだ。おもしろかった。なお、主さんも追記されているように、大学生を馬鹿にしたエントリじゃありませんのでお間違いなく。
 どこがおもしろかったかっていうと、今の日本社会とか今の若者とかそういう点ではなくて、以下の2点。特に俺が面白かったところ。おそらく主さんの言いたいことをほとんど無視したような内容になります。すみません。先に謝っておきます。俺の経験上ってことでひとつ。。。

人に何かを教えたり、評価したりする立場になるとよく陥るのがこの、「なんで〇〇ができないの?」という修辞疑問である。「◯◯ができない」ことが確かに問題であるのならば、その原因を明らかにして対策を練らなければいけないはずだ。しかし、往々にしてこのレトリックは単なる愚痴かdisに終わってしまう。

 これ。これさー。こういう言い方すると反発あるかもしれないんだけど、「女性って、こうだよねー。」って思った。うちの奥様なんかも、子供に対して、できないことをしかる時、「詰問」するんだよ。「なんでできない(やらない)の!いつも言ってるでしょ!」って。俺的には「教育的でないな」と思って聞いているんだけど。対して男は引用にもあるように「原因を明らかにして対策を練る」ことに重点をおくように思う。
 ただ、これは、俺も「なんでやらない?」と怒られていることも多々あるので、都度、(「なんでって言われても、せいぜいめんどくさいとか、忘れてたくらいの答えしかないんですけど、それ言ったら怒るでしょう?」)とか思っているわけで、男が子供を怒らないという点においては「わかるわかる。俺もそーなんだよ。まあ、次はちゃんとやろうなー。」という意識が働いている、という言い訳が成り立つかなあ。
 ま、母子についてはともかく、仕事の出来ないプライドの高い女上司、とかも同じじゃないかな。まあ、これは俺の経験に基づいたたった一人の例を想像しているに過ぎないんだけど、具体的な仕事の指示はしない、自分も仕事してない、でも幹部にはかわいがられている、もちろん社内でもいい顔をしていたい、というような糞人間が上司だったことがあるんですが、それはそれは何か報告連絡相談するごとに「なんで?」という答えが返ってきたもんだ。だからこっちは、原因も現状も今後の対策もすべて理論武装してから話しをしたもんだ。帰ってくる答えは決まって「書面にして提出して。」であり、書面を提出したことで彼女は満足し、その後その書面は誰の目にも触れることなく事態は風化する、それの繰り返しであった。つまり、その発生した問題は「何も解決しておらず、対策すらとられない」ままなのだ。

 おっと感情的になってしまった。すみません。「なんで?」は原因を知りたいからだ。または、原因を探るべく、その時の状況を単純に知りたいから投げかける質問でなければならないのに、「なんで?」と聞かれた人間は、一瞬、自分を否定されたというか、出鼻をくじかれたような気分に陥る。これは、立場が上の人間が下の人間に問うケースほど、その症状は顕著のように思う。たとえば、親と子、大人と子供、先生と生徒、上司と部下、などだ。相手を萎縮させてしまっては正しい状況把握ができないし、それはつまり、原因があやふやになってしまう、という結果を導く。だからこそ、普段から立場が上の人間は、下からの意見が言い易い環境を整えておくべきだ、と思う。
 出鼻をくじく「なんで?」ではなく、「おお。そうか。それで?」とか聞ければいいんじゃないかと。まずは相槌のひとつでも入れてみてはどうか。大体の場合において、言いにくい事を伝えに来た相手は、本来伝えるべきことをはるか後ろに隠したまま話しをはじめ、相手の反応が悪ければまた今度にしようと思い、機嫌がいいなあと思えば「実は…」と相談をはじめるだろう。つまり、ちょっと情報を小出しにした時点で「なんで?」と、相手に対して問い詰め状態に入ると、相手は守りに入ってしまう。自分が傷つかないように、自分に不利な情報は出さないようになる。そして、場合によっては、自分に有利な情報のみを提供し、現状報告とするようなことになる。

 なんか散らかってきた。

「自信の無さ」あるいは「怯え」ではないかと思う。自分の経験から考えると、就職面接で思ったことを言えるためには、「仮にこれを言ったことで落とされるのであれば、それは仕方がない」と思える、ということがとても大事だ。自分の考えが(大きく)間違ってはいないという自信。だから、これを言ったことで落とすような会社であれば別にそれで構わない、という余裕。

 つまり、学生に限らず、社会においても、自信がもてない、「怒られたらどうしよう」「くびにならないために」力の強いものに逆らうことがためらわれるような環境はあるし、大人でさえそうなんだから、学生さんだってそうだろな。とも思った。

 もう一つ俺はこのエントリを読んで面白いというか、俺はそこそこ自分の思っていることを発言してしまうタイプで時に空気をぶちこわすんだけど、以下を読んでちょっと納得した

「上記1〜4のような環境的ハンディキャップを跳ね返すだけの成功体験の欠如」ということになるだろう。自分の思う通りにやってみたら上手く行った、自分の思うことを真摯に述べてみたら相手が納得してくれた、そういった体験を少しずつ、何年もかけて積み重ねていってようやく、「自分の思ったことには言ってみる/やってみるだけの価値がある」と思えるようになるのではないだろうか。

 もちろん俺が学生だったのは今ではない昔だが、それなりの経験をしてきたのだな、と思った。全国から5000人程度が集まる規模の行事を主催運営するような組織のトップに関らせてもらっていたり、日常的に全国各地の下部組織とコミュニケーションをとるようなことを、学生時代にやらせてもらったことや、その組織の総会が、慣例で行われてきたものを、30年を迎えた時に直面した「やるのか、やらないのか」という選択。そこから考え始めるイベント。つまりそれは、物事の根底から考え直す作業だった。詳しくは書かないが、長い時間、多くの人々と話し合って、一つの結論を出した。
 そして、そこすら抜け出して、自分がやりたい道を歩き出した。たった一人で。それらが成功だったのかどうかはわからないが、疑問に思うことや納得できないことは、調べてみないと気がすまない大人になったような気がする。

 そして今は、子供の通う小学校の問題や、青年会の運営など、色々なところで前提をぶち壊すような発言を繰り返してしまっている。「異端」だなあ、と我ながら思っているのだが、このエントリから、俺はそこそこの経験を積んで生きてきたのかもしれない、と、思ってしまった。