道ログ2

群馬県在住のおじさんがブログを書く

11/19の報道ステーションから早大野球部の監督へ思いを馳せる

 たまたま見てたら斎藤佑樹投手のチームだった。
 楽天田中投手と数年前に甲子園決勝で対戦したあの、ハンカチ王子だ。
 斎藤投手と田中投手、というよりは当時のあの決勝2試合を書いた

 早実vs.駒大苫小牧 (朝日新書)

 を読んでみて、大変面白かったし、熱かった。
 
 今日テレビで取り上げられていた早大野球部の監督さんは科学的トレーニングとは逆をいくような、時代錯誤と言わんばかりの、根拠がない(と番組中言っていた)根性野球を教えていた。

 練習でこれ以上ないくらいに追い込まれていれば試合で笑うことができる。
 逆に、練習で笑えるような選手は試合で泣くことになる。と。

 野球の練習でありながら、スパルタな人間教育という、そんな内容だった。
 古きよき野球、古きよき日本という感じで、栗山さんもなんとなくいい感じにまとめて話をしていたが、やはりそこにもどこがどういいのかという根拠はなく、なんとなくいい感じですよね、というどこかノスタルジーな言葉の濁し方でコーナーは終わった。

 先に挙げた本を読んだだけだけど、斎藤投手がいた当時の早実野球部は、非常に科学的だったし、選手同士が考えて野球に取り組んでいたと思う。だから、斎藤投手だって優等生じゃなく、文武両立を掲げる早実のなかにおいてはどっちかっていうと劣等生だったようだ。
 そんなチームにおいて、チームメイトも斉藤投手には一目置いていたようだし、逆に天然で突っ込みどころが満載だったように読めた。

 「でも、斎藤ならできて不思議はないですよね。アイツ、そういうの得意だから。」

 何十年も高校野球を観てきた専門家もわざとなのか偶然なのか判断つかないようなスクイズのはずし方について聞かれたチームメイトがさらっとそう言ってのけたという。

 科学的なトレーニングを取り入れることは今や強豪高校野球チームにおいては当然のことだ。
 どこをどう伸ばすために、どの筋力を鍛えることが必要で、逆に、むやみに筋力をつけることはある部分においては能力をスポイルする結果になりかねない。というようなこと。一つ一つの練習に、目的意識があり、結果を想定して身体を鍛えること。

 確かに、「それでは辛い場面に面した際に踏ん張る能力が磨かれない」というのはそうだと思う。でもそれは、精神論であるから、それを肉体をいじめることでしかなし得ないのであれば、やはり、科学的肉体トレーニングと、科学に頼ったメンタルトレーニングを併用すればいいような気がする。
 つまり、意味もなくとは言わないが、意味もよく分からず50メートルダッシュを何十本もやったり、やたら身重になって練習したりすることは、たとえば斎藤投手のように極力無駄な力を使わないようにして、少ない力で力のある投球をして完投するような投手には向いていないんじゃないかと思った。
 
 今日テレビで見た斎藤投手は明らかに身体が一回り二回り大きくなっており、首もより太くなっていた。ということは、腕や下半身にもかつてないほどに筋肉が蓄えられた、たくましい身体になっているのだろう。
 それはつまり、腕をひねらずにまっすぐに振り下ろすあの投球フォームを捨てることになるのではないか、と、思いっきり素人として思ってみた。

 個人的には早大野球部の監督さんの仰ることには賛成なのだが、もしもそれが、野球をもっとうまくなれる練習をすることをないがしろにしてまで人間力を高める(いたずらに厳しくて辛いだけの)練習を続けることになってしまうとすれば、もしかすると選手たちが不幸になってしまわないのか、と思った。
 一部のスター選手は「おかげでプロでも活躍できた」と言うだろうが、圧倒的大多数の、プロに入ることすらできない選手たちは、厳しさをただやり過ごした4年間だったと思われないだろうか。

 仰ることはよくわかるのだが、それを美談として取り上げてしまうことは、いささか乱暴ではないかと見ていて思ったので書いてみた。批判する専門家がいないのならそれでいいが、いるのであれば少しでも取り上げるべきだろう。と思ったんだ。