道ログ2

群馬県在住のおじさんがブログを書く

なるほどだから俺は会話下手なのか。

「文章書ける」俺は「会話できない」人だった

 例によってMK2さんのところからです。
 ビンビンきたエントリなので、引用させていただきました。
 でも俺いますげえ疲れてるからほぼ思考停止だし、思ったこと垂れ流しになるな。きっと。
 何で疲れてるかっていうと税務署がなんとかでここんとこずっと過去の資料の捜索と作成がいつもの仕事にまんま乗ってきてるからなんだろうけど、それがひと段落ようやくしたからじゃないかなって思ってる。はあ。疲れた。

 少なくとも俺はブログを書くに当たってネタに困らないということはない。旧ブログだったらとりあえずなんかニュースでも拾って書こうとすればできたけど、今はそこまでして書く意味が見当たらない。

 極端な話、書くことがなければ「書くことがない」ことについて書けばいいと思うのだ。「書くことがない。なぜなら別に書くようなこと考えてないから。だって別に世のなかに問いたいようなことあるわけでもないし、最近なんかイベントあった?って聞かれたら昨日の晩ごはんが焼肉だったんだけど豚バラしか出てこなくてうちすっげー貧乏くさいし、このあいだスーパーで見たけど焼肉用の肉と豚バラなんてグラムにして80円くらいしか違いないじゃん」とか連綿と書けばいいと思う。つまり、相手のいないおしゃべりだと思えばいいわけで、それで書けないのはなんだかなーと思ってた。

 今の俺にはそういう風に書くことはできないかな、って思うより、「書くことがない。」という風にものを書く勇気が俺にはないからだ、というか勇気が必要だと思っている時点で、読み手を意識してしまっていることに他ならない。
 こんな、人の来ないブログであってでもだ。

 まあ、MK2さんの表現力や、とにかく本の虫さんであろうその文章の操り具合には脱帽以外の何者でもなくて、そこに対して張り合うとかそんなおこがましい話ではなくて、以下に対してなんとなくというか、けっこーな度合いで「わかるわかる。あるある。」だったからだ。

 実は俺は会話というものが異常にヘタだ。特に世間話の類がものすごくできない。

 まあこれには対人恐怖とかいろんな理由はあるにせよ、本質的には「相手の持っている情報を考慮しない」「その場において共有されている知識とそうでない知識の区別がつかない」なんかの理由が挙げられる。相手がだれであっても、口調も、省略の度合もほとんど変わらない。変えようとすると会話に全神経を集中しないとできない。そして集中しだすと、それは会話というより議論とか意見交換会みたいな雰囲気になってしまう。ついでに付け加えると、空気がおかしくなるのだが、空気がおかしかったことに自分で気づくことはあまりない。最悪だ。俺はどこへ行く。ぱんださんようちえんとかか。

 ぱんださんようちえんに俺も行かなきゃいけないかと思うくらいだ。
 俺も基本接客業だしサービス業だし、人と話すことが仕事だ。表向き対人恐怖症だとは思わない。だけど、接客が好きとか、人が好きとかそういう意識もない。世間話なんて苦手も苦手だ。
 たとえば俺は若い頃小さな劇場で小さな劇団の劇団員として芝居をしたりしていた。劇団という小さなコミュニティの中では非常に活き活きできたし、舞台の上でセリフを言うことやその練習をすることはとても楽しくもあったし大好きだった。と同時に、劇団員以外の関係者などと深い人間関係をきづくことは苦手だったし、打ち解けるまでには時間がかかった。
 人前で芝居をしたり、接客業をしながら生活している人間でありながら、「会話が下手だ」ということを改めて感じさせられた。というか思うきっかけをくださった。ありがたい。

 そう。そうなんだよ。俺って結局MK2さんのように、会話が下手であり、俺にいたってはコミュニケーション力がかなり低いと思う。だから今ではこうやってブログとか書くし、高校生の頃は最高で10人くらいの人と同時に文通してたこともあるし、大人になってからもワープロを経てネットにつながってないパソコンを使って親しい友人につまらないものを書いて勝手に送りつけたりしていたんだ。と、思う。
 あ。一応公開しているものなのできちんと言っておきますが、MK2さんのように文章力が自分にあるとは思ってはないんです。はい。

 MK2さんの文章ってほんとに好きで、しかも出会ったのが「モトケンブログ」で紹介されてたズッコケDQN三人組だったってのがなんとも言えずギャップがあってたまらないんだけど、そうだな、たとえば、書かれた文章があって、読み手がいて、読む側としては自分の読みたいように読むわけで、スラスラ読む人もいれば、ゆっくり読む人もいて、読むスピードと書かれている文章のスピードがストレスがないと、心地よい文章だと感じるような気がする。内容以前の問題として、それは感じている。
 漫画とアニメの違いなんかでもそうで、漫画は自分の想像の中でキャラクターにセリフを吹き込んで、抑揚もつけて、リズムも間も自分が主導権を握る。アニメになるとその辺はもう出来上がっているので、それについて「漫画と違う」とか「あのキャラはそんな声じゃない」とか文句も言える。だから漫画好きはアニメを快く見ない。とかそういうこと。
 で、俺は勝手な読み手なので、MK2さんの文章というのは、ちょーどいいとしか言いようがないくらいにちょーどいい。だから「おもしれ」と思うし、内容についても深く掘り下げて書き手の意図を詮索してみたくなってしまう。

 で、ところで俺はずっとMK2さんとお呼びしているんだけどそれは正しいのかどうなのか、それすら分からずにあれやこれや言っていいものなのか、いい加減である。

 会話ができないという話だった。会話をするに当たって、結論から入りすぎる傾向があると思っていたところだ。
 業務の報告じゃないんだから、結論から叩きつけたら世間話なんか成り立たない。だけど、誰かが何かを話し始めた時点で、これはもう、ほんとに無意識に、いやらしさとか、嫌味とかそういうのもまったくなく、自然と、その人が何を言いたいのかって言うことを、始めの二言ぐらいで考えてしまうんです。そんでもって、大体、分かってしまうんです。初めて会うお客様でもです。
 まあ、仕事中は当然です。自分の業務の範疇以外の話をしに来る人はほぼいませんから。その人の様子、表情、手に持っているもの、話し始めのテンション、などで、おおよその予測をつけてから話を聴き始めます。それは別に接客業に限らないはず。
 問題は、私生活においてもそうだということだったりする。家族や友人や、世間話をせざるをえない親戚や学校関係のつながりとかそういうの。世間話なんだからいくつかの情報を出し合ってそれぞれに共有されているであろう情報を摺り寄せて、それに基づいてお互いの意見を対立させることなくなんとなく違う話題にうつっていけばいいだけのことなんだろうけど、世間話だろうがなんだろうが、誰かが何かを話し始めた瞬間に

 「その話題の論点はどこか。」

 などと考えてしまう自分がいる。勿論意識してとかではない。
 次に

 「それについて論じるには俺は知識がどこまであるか、またはどの知識が足りないか。」

 とか考えている自分がいる。
 そして

 「相手はそれについて肯定か否定か。」ということを最初の数秒で理解して
 肯定なり否定なりをする根拠を探してしまう。

 それに対して自分ならどう考えているだろうか、どう答えようかと考えて、
 自分として最終的な判断を下すためには周囲の環境なども考慮するために他方向からの意見も想像してみるべきだと想像し、
 いくつかの構成において考察してみて、結果として自分は少なくとも今の時点で、この情報量の中では、こうするべきだと考える、とか、是か非か論じるには時期尚早だという結論を吐き出すか、どちらかだな、

 なんてことを相手が話し始めた瞬間から同時に考えて、相手の話が終わる頃には「これとこれについての情報が足りない。」ということに思いは移っていて、相手に聞いてしまったりする。

 「なるほど。では、立場が違う人の意見としてはどうなんだろう。または、法的に認められた手法をとっているのであれば情的にはごもっともだが、仕方ないと言わざるを得ないかも知れない。その辺の法的なことは、どうなんだろう。」
 とかだ。

 俺の場合、たとえば今思いつくケースを仮定してみたんだけど、そんな風になってしまって、会話がかみ合わないというか、続かないんだ。逆に、姉や母親とかと話をしていると、一言二言で済む話を余計な情報をこれでもかこれでもかというくらいに肉付けして話をしやがるし、こっちが言ってもいないことを勝手に想像しただけでは飽き足らず心配して意見を述べ、果てはいつの間にか俺がその心配されているような状況に実際陥ってしまっているかのような話をし始めたりして、しかもこっちの意見には耳を貸さず自論を次々に述べるので、話をしたくないと思っている。
 
 そんな風に考えてみるとやっぱり俺は会話下手だろうし、コミュ力低いんだろうな、と思うのだ。