道ログ2

群馬県在住のおじさんがブログを書く

成人式についての報道を見て新成人が低年齢化しているのではないかと感じたこと

 記事を紹介するまでもなく、もう何年も前から成人の日になると「大荒れ成人式」とかっていうのが報道される。特にテレビでかな。
 もうネタだよね。おもしろほのぼのニュースみたいな扱いになってる。
 新成人のやんちゃな子たちもそれを見て「俺も俺も」となって、毎年同じことの繰り返しになっていくわけで、まあ風物詩っぽくなってきているわけだ。
 
 俺ももう成人式の倍以上生きてきていて、俺の成人式なんてのはつまり20年以上昔の話なので今の成人式とは違ったよな、みたいなスタンスで話しようと思うわけよ。

 なあ新成人たち。
 おめでとうございます。
 もう人前で堂々と酒もタバコもOKだし、選挙権もあるしな。いいことだらけだな。
 なにより、君たちのご両親や両祖父母、兄弟姉妹や親戚たちもみんな君たちを祝っている。ほんとうにおめでたいことだ。

 俺も日頃高校生や大学生と接する機会が少しあって、成人式前後のみなさんが日々楽しかったり真面目や不まじめに過ごしている姿を眺めながらまあ、おめでたいなあと思っています。

 俺ね、思うんですよ。成人式ってなにがめでたいのかっていうね。本当にめでたいのかってことなんですけど。
 いやそれはめでたいんですよ。お祭りです。「大人」になったということの式典なわけですから、それはめでたい。
 そのお祭りはただめでたいだけではなくて、これを機に責任を持って自分や家族や社会のために生きていかなければならないという、そういう区切りなわけです。
 だから、大人たちとしては、おめでとう。ただ、これからはもう一人の大人として扱うから、しっかりと物事を考えて、行動しなさい、というメッセージもこめているわけだ。

 大きなお世話だし俺はそんなもん望んでない勝手にやるな、と思うのかもしれない。
 そう思っていいのは19歳までなんだよ。これは社会の決めたルールだ。
 20歳をもって成人とする。成人になったら責任ある一人の人間として生きていかなければならない。
 これはルールなのだ。19年間、そのルールに守られて生きてきた君たちは、これからは後輩たちを守っていかなければならないのだ。
 「ふざけんなよ」と言いたいかもしれない。しかしこれからはそんな物言いは通用しないからな、という、ルールだ。 

 社会としては、一人の成人が増えたということは喜ばしい。生産能力が向上するし、社会を豊かにする一員が増えたことを意味するし、やわらかく言えば、仲間が一人増えたことになる。だからめでたいのだ。
 19年間大切に育てた未成年が、無事成人してくれた、ということはとてもめでたいのだ。
 だからお祝いするのだ。
 当然結婚して子供を授かって、社会を明るくしてもらいたい。穏やかで和やかな家庭を築いてもらいたい。そういうメッセージも含んでいる。

 そういう意味でめでたいものであって、それを記念した式典であるから、晴れ着をきて出席するし、自治体としても正式な催しを用意して、首長が祝辞を述べるのだ。
 昔はどうだったかわからないのだが、どうやら今、一部の式典で場外乱闘のみならず、市長の祝辞最中にステージに乱入する出席者がいたりするようで、それがまたそう珍しくないほどのことになってきているようだ。
 式場外に目を向ければ晴れ着もきちんと着られないような未熟な新成人たちがたくさんいる会場もあるらしい。

 そういう光景をテレビが流していてぼんやりながめていたら、なにか懐かしい思いがした。
 そういうの、昔も見たことある。聞いたことある。なにかどこか懐かしい感じ。
 そうあれは。卒業式だ。

 最近、尾崎豊の歌を練習している。その歌手のことは好きではなかったけど、歌いやすいこともあって学生時代よく歌っていた。
 その歌の世界に似ている。
 制服を改造したり、派手な髪型をしたり、すなわち極端に校則違反をしているような生徒たちが、卒業式で暴れる姿だ。
 制服をまともに着ることもできないし、卒業式という、ほんの数時間のめでたい式で大人しく座っていることもできないやつらが、なんだか暴れている。多くの真面目な、いわゆる普通のせいとたちの邪魔をする。その家族の感動すら奪ってゆく。情けない姿だ。
 そんな奴らの姿と、成人式で暴れる人たちの姿が重なって見えた。

 そうかこれは、成人式ではない。卒業式なんだ。
 20にもなってまだ彼らは、高校、いや、中学校の卒業生並みの心しか持っていないのかもしれない。
 そんなことを感じだ。
 これは、由々しき事態だと思った。
 こんなことでこの国の未来は大丈夫なのか。18歳に選挙権を与えて大丈夫なのか。そんな不安を覚えた。嘘だ。そんな大きなことは考えやしなかった。「バカだなこいつら」それしか感想がない。テレビもそんな奴らのことはほっといて、まじめに頑張ろうと思いを新たにしている新成人でも取材して流してもらいたいものだ。

 これから新成人になる人達にはどうぞ、バカなことは子供のうちに済ませておいて、成人式を迎える頃には、「式典では大人しくすわっている」ことや「晴れ着は色々な世代の人が見ても奇抜ではない程度にきちんと着る」ことなどを学んでおいてもらいたい。

 人に迷惑をかけないこと。それくらいのことはしようぜ。な。

ブロガーにとってPVは大きな価値である

  長いです。 ついさっき、イケダハヤトって人について書いた記事を読んでた..

 このエントリを書いた人が誰かとか、イケダハヤト氏について書くつもりはないです。
 ただ、個人的にはこの増田はmk2さんだと思ったし、イケダハヤト氏のブログは俺は嫌いです。

 一ヶ月くらい前からかな。多分年末で冬休みに入る人向けに、ブログで稼ぐ方法とかそういうエントリが流行ったよね。
 「アフィリエイトでこんだけ稼げました」とか。
 俺はそれには興味ないし、最近はそんなにネットを徘徊してないから距離とってると思うんですが、それでも目に入ってくるぐらいには流行ってた。
 で、俺も少し前にそれについて書いたんですよ

  今年はブログを書こうと思う - 道ログ

 まだ一週間前のことだった。
 現代のネット利用者の中ではブログ長く書いてる方だとは思うんです、俺。
 ほそぼそと生き残っている派だと思ってるんですよね。
 ブログ始めた頃はもちろん初心者で、色々書きながら憧れのはてなに引っ越してきた頃も新参で。それからしばらくこうしてブログをなんとか続けてきているってなると、ネット利用者が爆発的に増えた現状の中では少数派に位置づけられると思ってるんですよね。
 そうなるとさ、ブログについて語ってもいいだろう、みたいなことを思うのです。

 俺はコンビニ店長というブロガーを尊敬してました。過去形なのは今俺はその人のブログを知らないから。文章を読むことができないから過去形。
 だからブログサービスを選ぶときにはてなに来たんです。
 趣味嗜好は一致する部分はまったくなくて、それでも彼の文章が面白くて大好きでした。
 彼のスタイルが好きで、俺も従来通り、テキストだけのブログでいいやと思ってやってます。
 ブログ記事を見てもらうためには、多くの人にとって見やすい、見易いものにした方がよくて、それが今主流になってる(無関係な)写真がやたら貼ってあったり、取材先や記者本人の画像が並んでいたりする記事なんだと思います。
 そういうのは、やっぱり「見られる」んだと思うんです。でもその記事が読まれているかどうかってなるとまた、別なのかなと。

 読まれるもなにも、見てもらわないことには読んでもらえる可能性すら生まれない、というのもわかるし、頑張って書いた記事なんだから、色んな人に読んでもらいたい、その工夫なんだからいいじゃない、とか、そういうのはごもっともだと思ってるし、そもそもそれを批判する意図もないんです。
 俺だって興味ないことについての長文エントリなんて読めないし。そっと閉じて終わる。

 ブログでお小遣い稼ぐのも悪いとは思わないですよ。俺だって収入があればいいなーと思いながら運営してるし。ないけどね。googleアドセンス停止されてるし。
 でも、それだけを目的としたブログやサイトが溢れかえってる状況というのは、おもしろくない、というのが、ブログ好きな一人の人間としての意見です。

 ブロガーってね。というと主語が大きいな。
 俺は、書くことが好きなんですよね。だからまあ、ブログなんて読まれないものを書いているんですけどね。
 ブログを書いて公開することで誰かに見てもらえるかもしれないし、気になる話題があれば「前こんなこと書きました」って簡単に紹介することができたりもする。批判されることは正直怖いけど、共感するようなコメントをもらえたりするととてもとても嬉しいです。
 ツイッターフェイスブックとかのSNSもやってますけど、書いたことがタイムラインとともに過去に流れていってしまうのはちょっと嫌なんですよね。皆さんが他愛無い日常の会話をしている中で一人である問題について熱く語っているようなあの雰囲気も、辛いわけです。
 SNSはみんなの居場所。ブログは俺のスペース、そういう感じなんですよね。

 俺は書くことが好きなんです。
 ネットが普及する前、高校生時代、俺は手紙少年でした。
 遠く離れた土地に友人が多かったこともありますが、複数の人と文通してました。高1から、大学時代までかな。大学卒業後もまだネットは俺の手元には普及してきてなくて、好きな女の子に毎週手紙を送るという行為を繰り返していたことも有ります(多分犯罪ではありませんでした)。
 その頃パソコンを割りと自由に使うことができたので、学生時代の仲の良い友人に、ワープロソフトを使って手紙を書くことをしていました。学生時代の思い出をネタにして、まあおもしろ文章みたいなものを送っていたのです。
 ほんの二人の友人宛に郵送していただけなのですが、大変喜ばれて、そのうちの一人が海外に転勤になる時に、A5版96ページに及ぶ作品を、餞別にと送ったりしました。
 その作品は今も残っています。

 俺、それって実は重要なポイントだと思っていて。
 書くことが好きな人って、やっぱり読んでもらいたいと思うんですよね。ただ好きだから書いている人でも、書いていくうちにどこかで誰かに読んでもらいたくなる。おしゃべり好きなおばちゃんがお喋りをするように、書くというアウトプットも、基本的には読み手という受け止め役があったほうがいいはずなんです。
 評価してもらいたいとか、高評価を得たいという思いとは違うと思うんですが、読んでくれている人がいる、っていう思いがないと、本当の「書きキチ」以外は書き続ける、ということはできないと思うですよ。

 だから、ブログを書いている人も、それなりのPVがないと、書き続けることができないと思うんです。気合入れて、画像を入れてみたり表をまとめてみたり数値を検証したりしてまでちゃんとした記事に仕上げようとかは、ならないんですよね。
 好きなことを語るだけだと言っても、読んでくれる人がいなければ語り続けることはできないんです。少なくとも俺はそうです。
 だから、PVを気にしたり稼ぎにいくのはブロガーとしてはごく自然だと思っています。
 このブログもおかげさまで何年か続けていますので、そこそこのアクセスはあります。じゃないと俺は書けないですきっと。
 例えば新しいブログを立ち上げて、心機一転書こうぜ、と始めても安定してPVを得るにはそれなりの努力が必要になります。それまで頑張れるかとなると、ちょっとしんどいかなと。

 だから、PV、大事にするのはいいんです。見てもらいたいんです。
 でもそれは、あくまでも書きたいから、読んでもらいたい、という気持ちであって、稼ぐため、ではないんです。収入なんてなくていいんです。
 そこがね、ごちゃまぜに語られると嫌です。
 俺なんかの規模のブログだと、一年間真面目に更新していっても、年に何本か人気記事書けるかどうかですよ。でもそこそこ、検索から流れてくれる人がいたりして、たまにふるーい記事にコメントついたりして、どこかで誰かが読んでくれているなーって思えるんです。だから書けるんですよね。でも稼げるかと言ったら稼げないです。
 稼げるなら稼ぎたいんですけど、稼げなくても書きたいという。
 書きたいことを書きたいだけ。それが俺のブログなんですよね。
 広告収入を得るためにPVを稼ぐために、書きたくないことを書くっていうのは、俺はあんまり好きじゃないです。

 そんなことを考えた次第です。