道ログ2

群馬県在住のおじさんがブログを書く

IPS細胞について思う。

 専門的なことはわかりませんが。
 IPS細胞については素晴らしいと思っている。
懸命な医療従事者や研究者のおかげで今日も生かされているという感謝はもちろんあるし、非難する気などさらさらない。

だが、IPS細胞については立場上慎重にならざるを得ない。
宗教上ということだ。
倫理的に、と言い換えてもいい。

ただ、倫理規範などは時代や文化とともに変わってしかるべきだから、俺の場合はあくまで宗教上の理由から、慎重になっておくべきだ。

助からない人が助かるんだからいいじゃないか。もちろんだ。それを否定するつもりはない。
だがたとえば、日本の有名な新興宗教には輸血を禁忌としているところがある。それについてはそれなりの教理はあるようだ。
ではなぜ天理教はというか俺はIPS細胞に慎重な立場を表明するか。

ひらたく、分かりやすく行ってしまうと「神への冒涜」にあたるのではないかということだ。

なぜならば、何年か前、臓器移植法案が成立した際、教内ではけっこーな立場にある、先生がいち早く反対を表明した。
乱暴に言ってしまうと「病気」になったのであれば、なぜ自分がその病にかかってしまったかを知ることが私たちの教理の一歩であるからだ。
その現実の上で、今を喜び、先を楽しみに毎日を生きていく。生きとし生かされていることの感謝が、人を助ける心につながっていくからだ。
病気も天災もなにからなにまでひっくるめて神の守護以外にはありえないわけだからだ。

「内臓が悪い。だったら取り替えればいい。」という発想に陥っては人は生きていくことを喜べないし、争いは耐えない。どこかで人が人の価値を決めなければいけない時が来る。
その際に公平に議論に決着を付ける手段を人間は永久に手に入れることができないであろうからだ。

脳死患者からの臓器移植がそうであるのだから、人工細胞や万能細胞などというものについては、慎重になって当然だ。
その技術研究は素晴らしいものと評価をする。
が、いつもいつも言うが「できること」と「やっていいこと」は違う。
生命を操れるような技術を人間がもったら必ず戦争の道具にするに決まっているだろう。

たとえば、医者は、人を治す知識と技術をもっているからこそ、人を殺すことはたやすいだろう。
原子力発電で便利になった人間の社会は、一瞬にして核兵器によって滅びるだろう。
皮肉なことに人類は戦争のたびに飛躍的に文明を発展させてきた。
飛行機、自動車、船、テレビ、電話、みな軍事技術を民間に広げた賜物だ。

どっかの誰かが勝手に決めた憲法とか法律とかそんな危ういものの運用で取り締まれるはずがない。
いくら「核兵器を使ったら制裁をうける」という決まりがあったところで、使われてしまったらおしまいだろう。
そういうことだ。

だから、俺はIPS細胞の実用に関しては慎重の上に慎重を期すべきだと思うし、極端を言えば研究そのものを制限するような法律があってもいいのではないかとさえ思う。
考えただけでおそろしい。

終末論とかそういうことではなく、俺としてはそう、「運命」と言っていいんだけど、それをそれなりに信じたり言葉として使ったりするくらいの人であれば、運命を受け止めて幸せな死に方をできるかどうかに心血を注いだほうが、考え方として妥当であろうと思って生きている。

誰も自分のことを幸せにしてくれはしない。なぜならば自分は常に幸せだからだ。
違いがあるとすればそれを教えてくれる人がいるか、または自分が気づくことができるか、できないか、の違いであろう。

そういうことを言いながら日々不満を口にする自分は、ものすごい親不孝者だと思う。