川崎市で通り魔事件
川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい(藤田孝典) - 個人 - Yahoo!ニュース
子供が修学旅行に行くので学校まで送ってきた朝、川崎で痛ましい事件が起きたと騒ぎになった。うちの学校の修学旅行先は、神奈川県だ。
最近、交通事故関連のニュースがにぎやかで、中でも散歩中の保育園児が信号待ちをしているところへ自動車が突っ込んでしまったニュースなど、大きく騒ぎになった。
その矢先の事件でもあり、また、トランプ大統領が来日していて東京は厳戒態勢であろうに、お隣川崎で凶行犯罪が起きたというのは衝撃的だ。
刺されたのは、小学生たちらしい。通学バスを待つ児童たちに襲い掛かった犯人。
おそらく子どもたちをかばったであろう大人。
20人にも及ぶ被害者を出し、多くの子供たちの心に深い傷を負わせた犯人は、報道によれば自分を刺しそして亡くなったようだ。
いたたまれない。残念だし、悲しいし、悔しい。
なぜ、子どもを、弱いものを狙うのか。苦しい。卑怯だ。
いくらでも、言いたいことはある。遠くで起きた事件であるし、自分にはあまり関係のない出来事であるし、どうせ一か月もすれば「ああもう一か月経ったのか」なんて言うだろうに。
しかし、小学生の子をもつ親としては、あまりに衝撃的で、感情移入すらできない。怖い。
そして同時に、宗教家である自分は、どこかで、犯人というか被疑者と言うか、いや、実行犯であろうその者を、救うことができなかったのか、と問いかけなければならないのだろうか、と悩む。
宗教家であり、我々の信仰から言えば、その実行犯すら、たすかってほしい人である。
一応、そんなことを考える。
では。はたして。
被害にあったのが、自分の子供であっても、家族であっても、同じことを思えるのだろうか。同じことを、考えなければならないのだろうか。
考えることなどできないとしても、考えられるようになろうとすることが、信仰の道なのであろうか。などと考える。
答えは、ない、いや、あるが、出したくない。
考えたくない。
死にたいのであれば一人で死ね、と言うつもりはないが、少なくとも被害にあった子供たちや、大人や、被害者のご家族には、まったく、なんの責任もないし、非もない。
それだけは確かだ。答えは、ないだろう