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道ログ2

群馬県在住のおじさんがブログを書く

宗教の領域

 答えのないものに答えるのは宗教の役目なのか。
 とか考えてしまった。
 いや。正確には、答えられないものに答えを見つけることを、宗教の人間はしなくてはいけないのだろうか。と言った感じ。

 原因不明の症状に悩まされる病人がいるとする。
 長年、そうだな、5年や10年といった単位で、何らかの症状で苦しんできた人がいるとする。
 日常生活にも不自由するくらいの苦しさだ。
 動くと息切れがしてしまうとか、動悸がしてしまうとか、呼吸が苦しいとか。横になっている時間が長くなってきている。病院はあちこちかかってみたが、なんとなくお薬で症状が治まったり、なにもなかったり、たまに悪化したり、と繰り返したりするような。

 宗教の人間というのは、たとえばそういう病気の人がいたらそれを「たすけたい」と思うだろう。または「たすけなければならない」と思うと思う。
 俺ぐらいになると、それくらいの病気を治したりするパワーが両手から出せたりするので、なおさらその思いは強いかもしれない(※個人の感想です)

 助けたい、助かってもらいたいと思いつつ、両手からパワーを送る。しかし、長年苦しんできたものが一瞬で治ったりすることはさすがにない。症状が治まったとしても衰えた体力がもどるわけではない。残念だがうちの教団には仙豆はないのだ。
 だから、同時に、ちゃんと病院に通うことをお願いする。肉体的に悪い部分があれば、医療による治療をしてもらうことは宗教側からしても重要だと思っているから。薬による治療や手術など外科的な治療をして症状を治していくとともに、「健康ってスバラシイ!」的な考え方を築いていくことが大事だと思っていて、その考え方を築くのは、お医者さんではなくて宗教家であるべきだと考えているんですよね。

 なので、俺がよく言うことは「ちゃんとお医者さんの言うことをききなさい」ということ。
 医者が寝てろと言うなら寝ていなきゃダメ。薬を飲めと言われたらちゃんと飲む。運動が必要と言われたらする。治すためには必要なことだと専門家が言うのなら、その通りにすべきだし、それをしないで治してもらおうなんてそんなムシのいい話があるわけねえ。
 医師は、人間の身体について、俺たちよりはるかによく知っている人種です。そして、あなたの身体を診察した医師は、あなたの身体について、どこがどう悪く、どうすれば改善するのかもよく知っている人間です。その人の言うことを守ることは、当然のことでしょう。それと同時に、身体に現れた事(病気の症状や原因)について、自分たちの知りえないことを教えてくれるということは、それは、神様の言葉を中継してくれていること、だとも思えるわけです。

 (なぜならばうちの教団では、人間の身体は神様から貸してくれてるもので、身体中すみずみまで神様のご守護が満ち溢れているんだぜ、と教えてくれているから)

 なので単純な話なんですけど、医師が「寝てろ」と言うことは、神様が少し寝なさい休みなさいと言っていることだと解釈できるわけです。というようなことですね。まあ、俺たちはもう少し深いところで考えたりするわけですけれど。
 で、その医師の言葉と神様の言葉を考えながら、相手の考え方を自分から周囲へと広げていくことをしていきます。その部分、「考え方を周囲へと広げていく」これが、宗教の領域だと俺は思っています。

 病気は鮮やかに治らないかもしれない。これ以上良くなることはないかもしれない。
 ここまでは医療の領域です。
 「この先も、この病気(や症状)と付き合って生きていかなくてはならないかもしれない。が、これくらいの症状であれば家族の協力があれば不自由なく暮らしていくことができるねえ。家族や周りの人に感謝して、素直にお願いして、たくさんお礼言って生きていきましょう」
 と言葉をかける。これは、宗教の領域だと思ってるんです。あくまで一例ですけど。

 話が大分それたような気がしてます。
 
 俺はまあ、そういうことを考えていたりするんですが、冒頭に言ったような、原因がよくわからないことで苦しんでいる人がいたとします。つーかいます。
 先日も会って、一緒に病院に行ってきたりしたんですが、そのときに「なんで?」と聞かれて答えられなかったんですよ。
 なんでこんなに苦しまなくちゃならないのか。と。
 医師も一生懸命やってくれてます。本人もあちらこちらと病院をめぐって頑張ってきました。(ま、問題がないわけじゃないんですけどそれは今は関係ないのでおいときます。)でも、良くならない。むしろここんとこ悪くなってると本人は言う。医師も「なんでかなー」と言うようなことは多いし。
 その「なんで?」に俺は答えられなかったんですよね。
 答えろと言われたら答えました。それなりの答えは持ってます。でもそれをその時その人に言ったところで、正しく意味は伝わりません。その答えそのものにその人が悪いイメージを持っていたりするから。なにより、その答えそのものに、大した意味がないからです。なぜそうなったのかという原因よりも、大事なことは、そうである自分がこれからどう暮らしていくか、だと思うからです。
 なんで、という質問の答えに、その人を納得させるものはおそらくありません。あったとしても、その答えは正しい答えではありません。いわば過去ばかりを見ている状態ではその答えは、その人の心におさまりません。これから、未来に目が向いてこそ初めて、その答えに寛容になれることと思います。今現在、その人がその状態でないのならば、それに答えることは俺は得策ではないと思いました。

 だから俺は「しらねーよ」と答えました。
 原因がどうであれ、苦しかったり辛かったりするその状況でも、子供を守って生きていかなければならない現実はあるわけで、そこをどうしていくのか、現状の中でどういう選択をすることがベストなのかということを考えていくことこそ、その答えへの近道だと思うからです。

 しらねーよ。という答え方をしたのは、そういう間柄にある人だからで、誰にでもそういう言い方をするわけではありませんが、答えを欲しがっている人に対して俺は答えを出してあげることはできなかった。いえ、しなかったんです。しらねーよ、とは言いましたが、その本意は「(今は)そんなことはどーでもいいよ」という意味だったと思います。
 宗教というものは科学的ではない場合がほとんどで、論理的でなくても許されてしまう場合が多いです。ですから、なんとなく「なんでも答えをくれる」場所だと思われます。その答えが自分の欲しかった答えであればその人は信仰するでしょうし、自分にとって都合の悪いことであればその人は離れて行くでしょう。そういう意味では「万能型」の答えは重宝されますが。
 ともかく、答えをくれるのが宗教であって、答えられないとなれば「なんだ宗教のくせに」と言われてしまいそうですが、わからないものはわからないし、テキトーなことは言えないんですよ。
 溺れる者は藁をもすがる。とは言いますが、実際溺れている人に藁を投げてもそれは「溺れろ」と言ってるだけですからねえ。極論になりますが、溺れている人がいたら遺言を聞き、最後を見届けるぞ、と声をかけるのが、正しい宗教のあり方かもしれないなー、なんて思っている、のかもしれません。(断言できない)