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道ログ2

群馬県在住のおじさんがブログを書く

熱心な信者さんとはなんだろう

   お道の御用というがそれは本当に御用なのか

 を書いたついでにちょっと思い出したことがある。
 
 あの人は熱心な信者さんだね、とか信仰熱心、とかいう言葉をよく耳にする。
 これって広く天理教内で使われている言葉なんだろうと思う。おそらく俺の友達とか先輩後輩とか、誰に使っても通用すると思う。
 で、熱心てどういうことよ。

 毎日教会に参拝する人のこと
 行事や活動に積極的に喜んで参加して精を尽くしてくれる人
 毎月欠かさず月次祭に参拝する人
 布教を進んで行う人

 まあ、熱心だわね。
 で、熱心だったらどうなんだろう、と思った。
 信仰に熱心であることになんの意味があるんだろう、と。
 というか、信仰に熱心という言葉の虚しさったらないな。まったく意味不明だ。信仰は信仰であって、熱心であるとかないとかは全く問題ではない。
 信仰というものはあくまで一個人のものであって、それが他者と比べてどうとか、なにかに照らし合わせてあっているとか間違っているとか、そういうレベルのものではないと思う。形がどうであれ、心がどうであれ、それがその人の信仰である以上、熱心であろうがなかろうが、なんら語られるべきものではない。

 それで話はおしまいなんだが、おれがちょっと危惧したことがあって、それは、信仰熱心な人(だから、いいことがある)とか、あの人は熱心だよね(だから、立派な人だ)みたいな考え方がどこかにあるんじゃないかという点。
 どこかにってそれは、天理教内に薄く広くなんとなく蔓延していないだろうか、いや、している。みたいに思ったわけです。
 神様の前に人は平等だ。熱心(だと言われる人は)熱心に、熱心でない人はそれなりに、神様に向かい合う姿勢こそが大切で、それをより熱心(だと言いたいなら言えばいいさ)に一歩でも近づけていくのがよふぼくであったり教会長の役割だったり思うわけですよ。

 教会において「あの人は熱心な人だ」と語ることは、「あの人」以外に人に余計なプレッシャーを与えることになりかねない。
 教会というのはできる人の集まる場所じゃないからです。できる人もできない人も集まってもらいたい場所だからです。
 誤解されると困るけれど、熱心な人を褒め称えることを悪いと言うつもりはないです。
 ただ、できないひとはやりたくなくてできないんじゃなくて、できないからやらないだけなんですよ。

 できない人はそれなりに。それは、教祖のひながたではありませんかね