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道ログ2

群馬県在住のおじさんがブログを書く

お道の御用というがそれは本当に御用なのか

天理教

 つーにはまあ、御用ってなんなのよってことから考えないといけないんですけどね。まあ多分それは定義ないんじゃないかなと。「ごよう」ですね。ごよう。

 でまあ、俺が最近不思議で仕方ないのは、天理教の教会長とか関係者で忙しい人間てほんとに忙しいよなってこと。ケータイのイヤフォンマイクが手放せなくて、運転の合間におたすけの電話をしないと時間が足りないとか、家にいる時間が全然ないとか、月の半分は上級だの本部だのの仕事で家にいないとか。

 単純にこう、「なんでそんなに忙しいんだ?」と。

 部内が数十といった教会の会長ともなれば部内巡教(部内教会の月次祭とかに行く)とかで連日出かけないといけないっつーのもわかるんですが、そうでない教会の会長さんなんかも忙しかったりする。
 でなんでこう、そうじゃない人がそんなに忙しいのかと。または部内を多く持つ会長さんもそれ以外の仕事が多いのかと。
 
 考えてみれば答えは簡単で、上級、教区、支部、また各会の「役」が多いんですな。
 天理教の教団組織ってのは教会がピラミッド組織になってるので、小さな教会になればなるほど上級が多いわけで、ただでさえ教会、教区、支部といった柵がある中で、それが多い。あ。しがらみって柵って書くのか。知らなかった。
 でまあですね。結論から言えば人手不足なんですよ。使える人間が少ないから、ひとりの人間がいくつも役を兼務してと言えば聞こえはいいですが押し付けられてあっぷあっぷしてるという、そういう状況が年々強まってきてる。
 人手不足といっても人数的には余ってますよね。ただ、使える人間というと限られる。それは、若い人だったり、能力のある人だったりというそのままの意味で。

 俺がこれ一番思ったのはうちらの最上級教会の会長さんが本部でけっこーな役割を与えられてるって知ったときですな。まあそれ知ったのが去年の話でそれまで知らなかった俺すげーって感じなんですが。
 これ、まじで驚いたんですけどね。彼が会長になって5年ぐらい似なりますけどね、部内数百を抱える教会の会長に、本部の大きなイベントの責任者をさせるってのはこれは本部の怠慢でしょ。正直部内を軽く見てるのかと。数百という教会を束ねる責任者の仕事って軽くないですよ。それなのに本部の仕事って。これはねー、本部の人材でやるべき部分だろうと。
 結局会長が忙しくて教会にほとんどいないとかっていう状況が生まれるわけだから、本末転倒も甚だしいわけで。
 本部は部内教会のことを思うなら上級教会長という役職には役を与えるべきじゃないと思うんですがね。
 それが「御用だから」ということでやらざるを得なくて、周りにしわ寄せがいって、結局部内から人が吸い上げられて(しかも有能な人材が)、ますます部内が力を失っていくという。
 上級が部内にしてくれることなんてあまりないわけなんで、せめて部内の邪魔をしないてもらいたいんですけどねっていうのはまあ、表では言えないですけど思ってはいることですなー。

 いやまあそれはともかく、そういうのを見ていくと、どこに行っても何に行っても同じような顔ぶれが同じようなことを、違う名前の行事の下に働いている。そんでよくよく見ていくとそれはみんな「ごよう」であって、「神様の御用だからそれは喜んでやらせてもらわないといけない」ってことでなんかやってる。ほんとにそうなのかと。
 それがほんとに神様の御用なのかってことが疑問なんだってことですけどね。神様の御用であればやらせてもらいましょうよ喜んで。

 こーいう問題、どこ行っても同じような顔ぶれで運営してるって問題は地方の行政関係なんかもみんなそうですけどね。顔役みたいなおじさんがいろんな役割を兼務してやってたり、持ち回りで区長なんかになるとほかの会の会長職ももれなくついてきますみたいな。そんで各会の懇親会という名の飲み会が連日あって、結局いつも同じ顔ぶれで飲み会を開いているみたいなそういうグダグダな状態。まったく同じですよ。
 ただ違う点が、その所属する組織の根本ですよねえ。
 行政ってのはまあ、自分が日本つう国でその土地に暮らす以上切り離して語ることはできないし、自分たちの意思でやったりやめたりできる性質の組織じゃない。

 片やお道の御用と言われるものは、信仰のうえに立脚してるものであって、教会関係はともかく、各部各会でどのような活動をするかなんてのは、そんなもんは二の次三の次でいい問題でしょう。つまりそこはやりたい奴がやりたいことをやればいいだけ。
 そこんとこを考えないで昔に作られた会だとか行事だとかを運営するためだけに人材が駆り出されて消耗させられるっていうのはこれは無駄でしかないと思うんですよね。つまりそこは「御用」でもなんでもない仕事が多く含まれてるんじゃないかと。

 忙しい。ということは俺は漠然と仕事量が多いことだと認識してきたんですけど、どうも世間で忙しい忙しいと言われる人を見ていると、いわゆる仕事(作業)そのものよりも移動時間や会議に出席してる時間や懇談している時間の方が長い。言ってみれば移動時間も会議に出ている時間も、それはその人、特に組織の上部の人間にとってはそれが仕事なんだと言われてしまえばそれまでなんだけど、じゃあそれはもっと簡素化できないのと。一人一人の人間の作業の簡素化やシステムの構築によって効率化を図ることはしても、会そのものをなくしたり思い切って活動を減らしたりということを行っていけば、人材にもかなりの余裕が生まれて、本来やるべきことに注げる力が増えると思うんですけどねえ。
 
 俺たちの帰属する組織っていうのは本部の教団なのかということがそもそも疑問ですけどね。そこについてはあまり語られているのを聞いたことがない。まあ、教会長にしてもよふぼくにしても本部公認が必要なわけで、そういう意味では教会本部所属と言われてもいいんだろうけど、各教会ってのは独立してるものでもあるからなあ。とりたてて上級教会で職を与えられたりしなければ上級でなにかを果たす責務もないと思うし(ていうかそれを断れるという前提がなければならないしね)。天理教団ということに帰属することに俺は抵抗ないけど、各会についてはこれは独立している以上、会を運営する人間なんて、それに所属する人間たちがなんとかすればいいだけで、それができなくなった時点でやめればいいだけ。そーすりゃ天理教一般で言われてる「御用」が減っていくわけでしょう。
 大体、組織で上部組織の仕事を受けるっつーのは自分にも自分の管轄する組織にもメリットがあるから受けるわけなんですけど、天理教のご用という考え方をもってすると、そのメリットは及ばないと言える。そこにも問題はあると思う。

 御用なんだからだまってやれって言われればそれまでなんでしょうけど、俺としてはその、黙って受け入れてしまうっていうところが問題の本質なんじゃないかと。
 それは、お道の教えというか教育そのものがそういう風に人間を育ててきているじゃないですか。それ自体は信仰の大切な要素だからまったく否定はしないけど、今の組織のあり方というか人材の使い方、つまり「御用の与え方」が、その天理教の信仰者の心根をうまく利用している部分もあるんじゃないのってことですよ。しかもけっこーな大部分で。

 まー、そんな内部の人間にとってはわかりきったことを今更グダグダ言ったところでどうにもならないんですが、俺としてはもっとこう、一人一人が、それは本当に必要な仕事なのか、不必要とあれば現場の長の責任において行わないという選択肢もあっていいんじゃないかってことをどんどん言っていくべきだと思うんですよ。
 俺なんかはそういうわけでここ最近、従来続いてきたものをいくつかしれっとやめてしまっていますけど、今のところなんの問題もないわけで、やってみりゃーあまりにもあっさりしてますよってことです。