道ログ2

群馬県在住のおじさんがブログを書く

出産のおたすけの続き

  前エントリ = 妊娠、出産にかかわるおたすけをさせてもらった からの続きです

2、3度目の訪問

 初めての訪問から一週間ほどして、再び訪れることにした。
 前回は病院だったけど、退院していたので自宅へお邪魔することにした。今回は車で。
 車で行くことの目的はいくつかあって、ひとつは時間に融通がきくこと。東京はいくらでも電車があるけど、群馬だと一時間に一本ぐらいしかないから、特に帰りに時間が無駄になってしまうことが多い。
 二つ目は荷物が積めること。なにかと要りような出産準備にあたって、荷物を運べるというのは大きなことだ。そして三つ目これが一番大きいのだけど、敦子さんのお母さんやお姉さんを一緒に連れて行くことができるから。
 そういうわけで、車で行くことにした。
 自慢じゃないが都内を運転するなんてのは滅多にないことで、しかも住宅地に入っていったことなどないからだいぶ緊張したけど、駅の近くということもあって、駅を目指して、駅に着いたら電話をして教えてもらうことにして行った。カーナビは壊れてしまっているので、おかげでgoogleナビの使い方を覚えることができた。あれ便利だわ。
 駅からなんどか迷っただけで敦子さんの家まで辿りついた。
 家に上がり、十何年ぶりに二人で話した。敦子さんは、元気だった。俺は安心した。お腹の状態がすごく良くなったわけでもなく悪くなったわけでもなく、相変わらずほとんど動けない状態だったけど、元気だった。
 敦子さんは俺が思っているよりずっと前向きで、しっかりいろいろなことを考えていた。俺は安心しながら、考え方のポイントをいくつか修正したりしながら、ゆっくり話をした。
 話をしながら「ああこれは、きっと大丈夫だなあ。どういう形の出産になるかはわからないけど、敦子さんも、お腹の子もきっとたすかるのだろうなあ。」と思った。
 くわしくは言えないのだけど、そういう感覚はあって、いくつもの要素を積み重ねて考えていくんだけれど、簡単に言うと「素直だったから」ということかなあ。逆らっていない、受け止めることができているというか。そういう感覚。実はそれは最初に電話をかけた時に思ったことでもあって、最初に電話をかけて敦子さんが「ありがとうお願いします」と迷わず即答した時に俺は「ああ。これはだいじょぶかもしれないね」と思っていた。
 現場の下見を兼ねた二度目の訪問は無事、車で往復することができた。

 さあこれで、敦子さんのお母さんを連れて行くことができるということで、敦子さんのお母さんをお誘いして、3度目の訪問を、その一週間後くらいにすることができた。
 今度は敦子さんのお母さんと二人で、東京を目指した。
 敦子さんの元気な様子を俺がいくらつたえても、敦子さんと電話で話しても、実際に顔を見なければ安心できないだろうから、実際に会ってもらうことが必要だと思った。それに敦子さんだって、自分の家族の顔を見ることができれば安心することも大きいだろうから。 
 敦子さんに安心してもらうこと、これはすごく大きな問題で、いくらおたすけだなんだって言ったって、神様がたすけてくれるから大丈夫、もたれて通りなさい、をびや許しもらっていれば安産だよなんだよ、って言ったって、本人にしてみれば初産だし、しかも普通の状態ではないし、そんな中でどうまかせてもたれたらいいのかわからないだろうから、だから、少しでも一つでも安心できるような要素を並べて上げることが大事なんじゃないかと思う。
 人にできることは、できる中でやる。本人が安心すること、もたれることが大事なのであれば、安心できる状態を用意してあげること、それが、「もたれて通る」ことのお手伝いなんじゃないかと思う。ただもたれて通れと言うだけなら、誰にでも出来ることだ。

 その日、敦子さんのおかあさんにもおさづけを取り次いでもらうことができた。これはとても嬉しいことだった。敦子さんのお腹の子は、もうすぐ1000グラムに届くほどにまで成長していた。
 その十日後、敦子さんのお母さんはをびや許しをいただきに、おぢばへと行った。
 当初予定にはなかった、敦子さんのお父さんも、十何年ぶりにおぢばへ帰ってくれることになった。

 またひとつ、安心できる要素が重なった。

4月

 3月の末、3月で4度目の訪問になったが、敦子さんの所へでかけることになった。今回は、をびや許しの御供(ごく)を敦子さんに渡すこと。敦子さんのお母さんと二人で出かけた。

 をびやの御供を一服いただいて、これでようやくの一安心だった。
 敦子さんとお腹の子は、4月を迎えることができた

 1000グラムにまで大きくなったら(大きくなることができたら)取り出しましょう。と言われていたお腹の子は、1000グラムを超えていた。大きい病院に通う敦子さんは、重症患者扱いされなくなって、「は?なに言っちゃってんのそれくらいで?」くらいの言われようをしていると言っていた。

 4月の中旬に5度目の訪問をした。
 この時は、敦子さんのお姉さん、優子さんが一緒に行くことができた。
 敦子さんのお母さんは3度目。お姉さんは初めての訪問となった。2月に第三子を出産したばかりで、赤ちゃんを連れての旅になった。4人を乗せた車で東京に向かった。

 敦子さんと優子さんの姉妹は仲がいい。敦子さんは自分の甥姪を可愛がっていて、特にその赤ちゃんとはまだ会ったことがなかったので、なんとか会わせたいと思っていた。赤ちゃんというぬくもりを、この時に感じてもらいたいとも思った。
 母と二姉妹、にぎやかな場だった。敦子さんがあまりよくない状態の妊婦さんであることなど忘れてしまうくらいだった。やはり現役の子育てママがいると話の内容も具体的で、あれは必要これは要らないなんていう話で盛り上がって、敦子さんも出産に対して少し具体的に見えるものが増えたみたいだった。
 念願の姪に会えた敦子さんはとても喜んでいた。
 この日は敦子さんの旦那さんもお休みで、さらにお義母さんも来てくれて、思いがけずご挨拶までできてしまった。

 この頃から敦子さんは大きな病院で診てもらっていて、詳しい検査とかもしてもらっていた。
 優子さんも心配していて、地元の大きな病院でいいところがあるから里帰り出産すればいいのに、と勧めていた。俺は、東京で産んだほうがいいだろうな、と思った。敦子さんはお嫁に行ったので、それはもう、嫁ぎ先の娘さんでもあるので、そこの人間として、その土地でお世話になる、新しい家族に甘えて通ることが必要だと思った。そういう言い方は厳しいのかもしれないけど、敦子さんの状況で考えると必要なことだと思った。
 敦子さんの状況とは、確かに初めての出産ではあるけど、もう若くはないこと。そして、これが最後の妊娠であるかもしれないこと。次はないかもしれない、そういう状況のことで、そう考えると、里帰り出産ではなくて、可能であれば東京での出産の方がいい、そういうことを思っていた。

 古臭くてつまらないこだわりと言われてしまえばそれまでなのかもしれないけど、神様の声を聞くというのはそういう作業の繰り返しであって積み重ねである。
 どの選択肢を選ぶかが、よりストレスなく良い結果にたどり着けるだろうかという、それこそが信仰の道中なのであって、おたすけにつながっていくのだ。
 そして、大切なのはそれをどう伝えるか。それが一番難しいことだ
 そんなことを思いながら、5度目の訪問を終えた。
 筋腫が多くて赤ちゃんのいるスペースがあまりないと言われていたお腹の中は、医師も不思議がるようにお腹の中にスペースができていて、赤ちゃんがなんとか収まる空間ができていた。

 4月末、GWに入る前に、嫁さんと一度出かけようと、二人で出かけた。お腹も大きくなり始めた敦子さんと、嫁さんの再会。嫁さんは初めての時以来で、初めての時はほんとに病室でおさづけを取り次いだだけだったので、話すのはほんとに久しぶりのことだった。
 この頃には少し歩けるようになっていて、近所のスーパーに買い物に久しぶりに出かけたと言っていた。ついこの間まで、洗い物もできなかった敦子さんが、である。

おさづけと胎児と筋腫

 振り返って2度目の訪問の時のこと。別に振り返ってってわけでもなく今思い出したからなんですが。
 2度目に訪問したのは3月の上旬のことで、一人で車で出かけたときのこと。
 おさづけを取り次いだところ、下腹部の当たりでなんというかこう、手のひらに感じるものがあって、ああこれは、なんて思いながら、終わったあとに、
 「ここ(その下腹部のあたり)に、赤ちゃんがいるわけね?」
 なんて聞いたら
 「いや赤ちゃんはこのへん(みぞおちのあたり)。そこは大きな筋腫だよ。」
 と言われてひどく落胆したことがあった。

 しかし、落胆してもいられなくて、これはなんか言わないといけないと思って考えてみて、ああそうかと。そこに筋腫があって、そこに何かを感じたということはなにかがあるわけで、そういうときに脳細胞フル回転。
 筋腫を悪いものだって考えちゃいけないよって。間違いなくあなたのお腹の一部であって、赤ちゃんと一緒に成長しているものだし、それがあるからこその赤ちゃんの今の状態もあるかもしれないし、これから先、筋腫と一緒に赤ちゃんと成長していくような、そんな思いを持ったらいいのかもしれない。筋腫のおかげで今がある、ということだ。
 そんなことを思った。
 実はこの気づきがきっかけで、なぜ今敦子さんが妊娠したのかということも少しわかった気がした。ここをしっかり通りきれれば、いんねん切れるし、なにより元気な赤ちゃんを授かるだろう。神の思し召しがそこにあるということ、それを気づけたことは、敦子さんにとってではなくて俺にとってものすごく大きな収穫だったと思う。
 なぜ今妊娠したのか、ということは、なぜ今になるまで、良い人にめぐり合ったりもしていながら結婚せず(できず)、妊娠もしてこなかったのか、ということも含んでのことである。なぜ今、ここで、この環境で結婚できて妊娠できたのか、ということ、そこに、つながっていく答えがあるのである。

 4月の終わりの6度目の訪問に続き、5月に7度目の訪問を、敦子さんのお母さんとして、敦子さんとお腹の子は、6月を迎えることができた。
 1000グラムにまで成長できたら取り出そうと言われていたお腹の子は、2000グラムにまで成長していた。「一日でも長くお腹にいられますように」それが願いとなった。お母さんは、「保育器に入らなくていいようになるのはもう少しなんだって」と話していた。
 出産の予定は、6月末の某日に手術をすることに決まった

緊急入院から777の思案

 なかなか安心させてはもらえないもので、6月に入ると同時に、敦子さんが入院したと聞いた。
 夜、急に出血があったということで、出産する病院に救急で入院したということだった。8度目の訪問を目前にした日のことだった。今回は、俺、嫁さん、敦子さんのお母さんの3人で出かける予定だった。
 
 様子はわからないものの、病院に入院したっていうことは、母体と妊婦にとってそこより安全なところはもはやないわけで、かえって安心した。敦子さんにとっては妊婦のまま6月を迎えられたことだけで奇跡的なことだ。
 しかもこの時の訪問の際に、病院の場所を下見して帰ろうと思っていたので、都合がよかったというか、ぶっつけ本番になってしまったというかなんというか、な感じだった。
 何度か道に迷いながら病院に到着し、8度目の訪問となった。幾つかの扉を通り抜けながら病室へ。個室に入院していたものの、元気な様子。ご飯も一人前食べられるし、安心した。
 
 先日の検査のことなども聞いて、やはり下腹部には筋腫があるため、お腹の上の方に赤ちゃんがいるので、みぞおちの下あたりを開腹するようになりそうだ、なんていうことだった。そのへんのことはよくわからないんだけれど、母子ともに無事であるなら、と思った。
 ご飯もちゃんと一人前食べられるし、ということはつまり、なにかわからないけど切迫した状態ではないことを示すわけで、安心して家路についた。

 当初の手術予定日まであと二週間ほどとなったある日、お母さんから連絡があった。
 手術が一週間早まったということだった。当初の手術日は俺も休みの日だったので行けるように予定はしていたものの、その日は仕事になっていたので行くことはできないな、と思った。お母さんは大丈夫電車で行けるからと言ってくれていた。
 行けるはずの当日に行けない、働けないことになってしまったかな。と思った。
 ここでも思案をする。

 七日早まった。七日。7。
 その連絡を受けた日が、手術の七日前だった。7。
 7が二つ揃った。7はたいしょくてん、切るお働きだ。
 出産において切るのは親と子の胎縁を切る働き。また、手術となればお腹を切る働き。
 7が二つであれば、もう一つ7を揃えること。7を三つ、21の働き、あしきはらいのつとめの理だ。そこで満足に収まることがある、そういうお示しを読む。
 7をもう一つ。二つはむこうから提示された7だ。ならば、あと一つはこちらで揃える、そこに7が三つ揃う。それは、運ぶことかということで、
 敦子さんのお母さんに七日間の日参をお願いした。教会に七日間。
 本来ここはおぢばがえりを基準とする。おぢばに帰れる状況であれば、第一に選択すべきはおぢばがえりであり、それ以上にできることはない。しかし、難しい状況なので、七日間の日参をお願いした。
 快く承諾してくれて、しかもお父さんと二人で一週間何も言わずに運んでくれた。
 これはなによりありがたいことだった。
 これで、きれいに切れる。きれいに切ったところはキレイにつながる。そう思った。
 俺は俺で、上級の月次祭の日に、祭典後その足で病院にもう一度運ばせてもらった。これが9度目の訪問となった。
 2回目の訪問のとき以来の、一人での訪問をした。
 病院に着くとなんと個室から大部屋に引越ししていて、もう普通の妊婦さん(とはいえその病院に入院している時点で通常分娩の難しい妊婦さんであるようだけれど)のように見えた。

 ここで手術が7日早まったことをもういちど考えてみた。
 お腹の赤ちゃんは2500グラムを超えていた。ほんとにもう、いつ出ちゃっても大丈夫なくらいになっていただろう。赤ちゃんが大丈夫ということになれば、今度は母体の心配をする番にもなってきたんじゃなかろうか。
 子宮があまり健康な状態ではないわけで、赤ちゃんがあまり大きくなると母体への負担も大きくなってくるんじゃないかとかそういうことも。もちろん、ほかの子に比べれば狭い子宮にいる赤ちゃんも、大きくなるごとに子宮が狭くなってきて、負担にもなるだろうし。
 そういうことも考えて、遅くもなく早くもない最適のタイミングを選んでもらえたんではないかな、なんて思った。そしてそれは、入院患者でなければできないことだろう。手術日を変更するということは、通院患者さんには難しいことであると思う。

 そう考えたときに、原因不明の出血で緊急入院になったことも、なるほど、と思えたことである。

出産

 七日間の日参を運んでくれた敦子さんのご両親にお礼を述べるまもなく当日を迎え、俺は仕事をしていた。あとは本人とお医者さんに頑張ってもらうしかなく、家族でもない俺はご家族からの連絡を待つのみだった。
 手術当日、無事、産まれたと聞かされた。新生児は3000グラムに近い数字で産まれてきた。
 
 4か月前、1000グラムにまで成長できれば、と言われていた子は、3000グラムにまで成長して、お腹から出てきた。元気な女の子だった。
 俺は4か月前には、最初で最後の妊娠だと思っていた。出産が無事にできても、流産という結果になってしまったとしても、子宮を摘出してしまうことになるだろうと思っていた。素人考えだけれど、なんとなく周りもそう考えていて、だからこそなんとか無事にという思いが皆に強かった。
 
 術後の経過も一般的らしく、七日で退院した敦子さんに会いに行った。
 それまでほとんど動けなかった敦子さんは、すたすた歩いて玄関まで迎えに来てくれた。その動きは妊婦の頃より明らかに軽くて、ああ、こういう動きが出来る人だったな、と思った。
 部屋の中には赤ちゃんが一人寝転がっていた。静かに眠っていた。産後7日にしてはしっかりしたいう印象だった。
 手術も実にじゅんちょうだったらしく、子宮も筋腫も手を付けず、そのままお腹の中にあるらしい。
 今後どうなるかは経過を見てみないとわからないそうだが、当初考えていたようなことはすっかりなくなっていた。

 10度目の訪問を終え、一人だったのでいつもと違う道で帰ってみた。
 すぐ近くのインターチェンジから高速に乗り、料金は高いし距離も長いものの、速くて安定した道路を選んで通ってみた。
 敦子さんんお父さんがいつでも行けるように、より走りやすい道路を走ってみた。
 とても走りやすく、いつもより速くたどり着ける道だった。
 
 新しい命が、早くたくさんの家族と会えることを今は祈っています。

 これで終わります。