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道ログ2

群馬県在住のおじさんがブログを書く

「ひのきしん活動」は、名前がよくない

 何を今更、なんだけど、ここんとこぼんやり考えてる。
 修養科の時からだからかれこれ15年以上、いんねんもたんのうもひのきしんも、単独の言葉として使うとほとんど意味をなさないと思っている。それぞれを独立させて教えようとするところに、教理のつたわりにくいところがあると思う。

 でもまあ、少し天理教の話をきいたことある人は「ひのきしん」て言葉を知ってて、天理教の入口のような言葉になってる。つまりは教内においてそれほど定着している単語と言っていい。天理教の代名詞と言ってもいいくらいだ。
 だが、現実では、教外の人でひのきしんという言葉を知っている人はいない。そこに、天理教の人間の視野の狭さが現れていると思う。

 活動としてのひのきしんを行う場合、教外へのアピールという意味が含まれると思う。なんらかの活動を行なっている団体があって、そこには天理教の看板が掲げられていて、なにをしているのかと思えばそれは「ひのきしん」だという。
 また、いきなり教会への参拝を誘ったり、神様の話を説くということは難しいと思えば、そういう活動にまず誘って、それから徐々に神様の話をしていく、という目的も大きいし、それの果たす役割は欠かせない。

 したがって、「ひのきしん活動」は、それがひのきしんであるかどうかはともかく、持つ意味は大きいし、果たす役割も大きい。であれば、そこにわざわざ「ひのきしん」などという「知らない人にとってわかりにくい」言葉を使う必要がない。
 ひのきしんとは、「日の寄進」とも言われることが多く、神様への感謝を表す行動全般をいい、特定のナニカを指す言葉ではない。というのが一般的な意味。

 だったら、俺は「教会奉仕活動」と言えばいいと思う。教会の使命は、おたすけであり、おたすけのためのおつとめをつとめることだ。
 幸せとはなにか、ということを教える場所でもある。そう考えたときに、入口として「誰かのためになることをしよう」と呼びかけることは正しいことだと思う。人のために役立つことをしようという活動に参加したいと考える人は多いと思う。その主催がよほど怪しいところではなければ、参加したいと思うだろう。たとえば、近所のキリスト教の教会やお寺、また行政区やNPOなどで清掃活動やボランティア活動をやるという時に、時間があるなら参加したいと思う人は多いだろう。俺も思う。それが、キリストへの信仰を表すとか、市民の善意であるとか、そういうことはあまり考えないと思う。ただ、人のためになるなら、と思う。
 もちろん実際に参加したことはないけど。

 であれば、そういう人たちに参加しやすい環境にするべきだと思う。ひのきしん活動は、清掃活動であることが多い。実際に運営してみるとものすごく難しいものであることも知ってる。しかし、清掃活動こそ、誰かのタメになる活動ではないか。人と交わるひのきしん活動であればなおさらだ。
 その場所に、一人でも多くの人が参加しやすいという環境を整えることも、主催者の考えるべきことだと思う。「ひのきしん活動」という、天理教色を前面に押し出した名前にして、わけがわからないものにすれば、ひのきしんがなにかわからない人(しかもそれは圧倒的多数の人)にとっては関係ないものでしかない。

 教会に集まる人々にも、イマイチ意味がはっきりわからないひのきしんという単語に縛られるよりは、奉仕活動、人のためになることをしようという旗を振ってもらったほうが、目的が明確だし参加するしないも選びやすい。信仰熱心な人にとってはひのきしん活動と言われても抵抗はないだろうが、信仰の浅い人にとっては、反発も多い。そして、「ひのきしん活動」は、信仰のない人、信仰の浅い人こそが対象になるものだ

 なにより、教会に集まる子供たちには、「ひのきしんをしなさい」と言うのではなく「人のためになることをしなさい」と教えたほうが、理に適うと思うのだ。