道ログ2

群馬県在住のおじさんがブログを書く

旅行当日に熱を出してキャンセルしたことについて天理教脳で考えてみる

 今日から三日間、嫁さんと子供たちが北海道に行った。いや、いく予定だった。嫁さんのお母さんが、何かの何かで連れてってくれるってことだった。俺はまあ、仕事だし正直そんなに興味もないし寒そうだし「いってらっしゃいごゆっくり」と送り出した。

 昨日夜、嫁さんと二人の子供は嫁さんの実家である神奈川県に着いた。予定では今日羽田から北海道に飛ぶことになっていた。

 今朝嫁さんからメールが来た。「長男が熱出した。昨日から調子悪かったらしい。」とのことだった。
 熱は39度近いらしい。

 平時なら、薬飲んで行くか? とでも考えるところだが、季節が季節なだけに、判断は慎重にすべきだった。インフルエンザだったら、責任は重大だ。
 しかし、お母さんが早くから準備してくれて、誰もが楽しみにしていた旅行だった。行かせてあげたい。それは、強く思う。しかし、無理に行かせることはできない。
 さらに、「また今度」とは、正直言い難い。正直、今後嫁さんが家を空けて数日間旅行に出かけるというのは、不可能ではないが現実的でもない。

 結局、大都会群馬でもインフルエンザが流行していることもあり、朝6時半頃、「中止」の決断をした。

 天理教脳としては、「ああ。よかったねえ。」と言ってあげなければならない。ではなにが、よかったのか。それを考えるのが我々の仕事でもある。
 安直に思いついてしまったのが「もしかしたら今日出かけたら、飛行機がトラブルになるとか、北海道で大雪が降るとか、そういう事態に巻き込まれてたかもしれない。だから、行けなくなってよかったんだよ。」ということだった。
 だが、それは違うと思った。だって、飛行機にトラブルなんて考えたくもない。仮にそうなら、多くの人が迷惑なことになるし、航空会社だって空港のみなさんだって大変な苦労になる。そんなことならない方がいいし、その可能性を考えたら、なにより「自分たちだけたすかってよかったね。」の思考になってしまう。それではダメなんである。

 その時にはなかなか考えも浮かばず、「長男はうちの羅針盤だから、この決断がよかったと思える時がきっとくるよ。」とだけ、嫁さんにメールをした。
 なにげにうちの嫁さんもたいしたもんで、そのへんの諦めがいいというか、達観しているというか、それくらいのことでは動じないようにはなってきてる。「よくわかんないけど、よかったんだろうなー。」とか考えるに至っている。

 まあ、正直、2月の1日にお葬式ができて神奈川日帰りしたり、仕事が変わったりして、嫁さんも疲れているだろうから、のんびりしたほうがいいというのも俺の本音だった。

 今日は神奈川で病院に行って、何日かしたら帰ってくると言っていた。おいしいもの食べてのんびりしておいで、と言った。

 さてあとは長男本人だ。想像を超えて落ち込んでいるだろうから。あなたは悪くないんだよ、とよく聞かせてあげることはもちろんのこと、ありがとうをたくさん伝えてくれるように頼んだ。
 実際、インフルだろうがただの風邪だろうが、一番いいタイミングで発症したと思う。
 一日早ければ神奈川にもいけず、家で寝ていることになっただろう。そうなったらそうなったで、ウチにはけっこー人が来るので大変だ。また、一日遅くても大変。北海道で熱が出ても大変。病院にかかるのも大変だし、ゆっくり寝る場所を確保するのも大変。帰ってくるのも帰って来られるかどうか。という騒ぎになる。

 今日、うちの家族、両親、姉たち家族の分も含めてみんなの分の病気を、神奈川に隔離することに、長男はしてくれたと思う。きっとそうだろう。あいつは、いつも誰かのために身体を張っているから、神様はきっと、その大役を任せるに値すると判断してくださったのだろうと。
 この間、家で豆まきをしたときも、自分のお菓子は後回しで、弟や、いとこたちのために全体を見渡していたし、鬼役のおじさのばさんに気を使っていた。そういうことができるようになったのか、と感心した矢先のことだから、きっと、間違いないだろう。神様からのご褒美である。
 
 仮にインフルエンザであったなら、中止した価値は十分に認められる。それは誰にも分かることだが、では逆に、結果的にインフルエンザでなかったら、それは取り越し苦労だったのか? キャンセル料を無駄にしただけだったのか? そもそも計画すべきでない旅行だったのか?
 答えはノー、である。もし結果的にインフルエンザでなかったならば、それはそれで十分にご守護である。先にも述べたが、弱っている状態で旅行を強行しでもしたら、簡単にインフルエンザに感染してしまうだろう。熱があってけだるい状態で初めての飛行機に乗ってなにごともないとは考えにくい。

 思うに、今回のケースにおいては、インフルエンザに感染したかしてなかったかが神の守護ではない。では、どこに特別な守護をいただいているか。俺は「中止をしたこと」にあると思う。
 その判断をさせてくれたのは、神様の教えを早くに聞かせてもらっていたからこそできたことであるし、当日になって旅行を中止したことに、当人たちの誰もが不足を述べないところに、神があると思う。

 こう言うと大げさになってしまうのだが、神の守護とは一定であり、意図的に何かを動かしたりすることはないのではないかと思っていて、それではどこに守護があるかと、いうことなのだけれどもそれは、「神の声が聞こえるかどうか」ではないかと思う。
 日常の中の、ひとつの出来事、ふたつの出来事、みっつの出来事、その中に、神の思し召しが必ず含まれている。何かに迷ったとき、神様はどちらにあるかと思案し決断すること、それができることが、神の守護そのものではないのかと、つねづね思っている

 突然旅行に行けなくなったのは確かに残念だと思う。小学生の子どもということを思えばその落胆は想像できないほどだが、俺たち親の役目は、時間をかけてでもそれを伝えていくことだと思うし、間違っても責めたり、笑い話にしたりしてはならないと思う。心から感謝をすること以外に、できることはないだろう。

 「大難は小難。小難は無難に。」と神は言った。簡単な言葉だけれど、その真意、そしてその神意は、人間にとって簡単ではない。その神の言葉を考えることが、神の声を聞くことの第一歩なのかもしれない。

 天理教的に言えば、悪いんねんがあらわれた。ではなく、これは、「いいいんねんの種を蒔いた。」だろう。長男は子供ながら、またひとつお徳を積ませてもらったのだ。いや決して、親の責任放棄ではなくて、そう思う。

 いや、ここでは初めて割と本気で天理教的に話しました。おしまい