何者にもなれないというか、なりたいと思ったことがない。
昨日あたりにはてぶで見たエントリです。
寝る間際に布団の中でざっと読んだので、「うわー。なんてプライドの高い人なんだ。」ってのが感想。
おそらく、この方と俺とはとことん価値観とかが逆向いてると思った。
まあ、そんな感覚は人それぞれだからどーでもいいとしても、俺はどーしてもここがひっかかった
作家の文章をプロ野球の1軍とするならば、ブログの文章は2軍だ。
(本当は四国アイランドリーグくらいなのだろうけど、わかりやすいように今回はこれで話そう)
え。。。そうなのか? 趣味だかなんだかの話をしていて、どうして職業としての文章家の話しをし出すのか。というかブログって、そんな崇高なもんじゃないだろう。
野球にはプロ野球の一軍もあれば、アマチュア、学生、少年野球に草野球まであるじゃん。なんでブログが四国アイランドリーグのレベルを要求されなきゃならんのか。
俺はこうして今でもブログを書いているけれど、作家の文章がプロ野球の一軍であったとしても、俺の書く文章は何者にもならないわな。どーしても野球に例えたいなら、野球板程度でしかないけど。でも、そーやって野球が好きで、子供でも楽しめるようなレベルでちまちま遊べる、そーゆー文章が俺は好きだよ。
野球板界で頭角を表したいとも思わないし、少年野球の敗戦処理に失敗したいとも思わない。
俺の文章がもしかすると高校野球クラスだったとしても、それを決めるのは俺じゃなくて読んだ人だからさ、俺にはほんとーに関係ない話。
ただ、プロの作家は、文章書いてお金もらうんだから、そういうの関係ある話になるし、そーいうのを目指す人にとっては、どこかの誰かが(出版社の人とかが)相対的な評価を下してくれることを意識して文章を書くというのも、理解できる。
ま、おそらくそーいうことがいいたいんだろうけど、「ブログの文章は」とかっていうのはあまりに乱暴で、ちょっと反応してしまいました。
最初にプライドが高いなーって思ったのは、この文章から、「誰かと比べてよりよい」とかいう、相対的な価値観によって自己の立ち居地を確認するかのような感覚がうかがえるからなんですよねー。
じゃなく「俺が」どう思うか、だと思うし、自分がそこそこ絶対的に(相対的にじゃなくって、程度の感覚)依って立てる価値観を持っていると、こういう感じが薄くなると思うんだよね。
これとかも
大部分の「何者にもなれない人間」にとって根源的な「しあわせ」みたいなものって、「おいしい朝ご飯を食べて、おひさまの香りがするふんわりとした布団で寝ること」に尽きるのではないだろうか。
どーして「大部分の何者にもなれない人間にとって」って、限定条件をつけちゃったんだろう。何者かになれた人間にとっては、根源的な幸せは別なものがあるということなんだろうか?
何者かになった人間がおひさまの香りがするふんわりとした布団で寝ることをしても幸せだと感じないのかな。
朝食どころか、食べることもままならず、温かい布団で寝ることすら叶わない人間は、幸せにはなれないのか?
人間としての根源的な幸せより先に、「好きなものに熱中し、感情移入して生きていられるかどうか」を評価してしまうのって、本末転倒もはなはだしいと思うんだけど。
まずもって人間として生きていくこと。なにが、人間にとって一番の幸せであるのかを考えて、そして余裕のある人とか、運の良かった人とか、そういう人たちが、趣味だの、職業だので成功していけばいい。
「何者か」になりたければ、なればいい。
とかここまで書いてリンク先読み返して反省。読み落としてた。脊髄反射で書いちゃった。以下補足
「いくらでも代わりがいる1個の歯車」でしかないことがつらくてしょうがない。
「写真」とか「文章」というのは、「何者かになるはずで、なれなかった人たち」の最後の受け皿になりやすい趣味だ。
だそうです。
ええと、ただ単に趣味としての文章ではなくて、「何者かになるはずで、なれなかった人たち」が趣味とする文章についてだったそうなので、俺のだらだら漏らし続ける文章とはちょっと次元が違う文章、ということでしょうね。
そして、その、何者かになるなずでなれなかった人には、「立派な歯車になりなさい。」としかかける言葉がないかな。歯車を馬鹿にしてるから、根源的な幸せについてすら、自分なりに明確にならないんじゃないのかな。
「歯車」だって、立派な「何者か」になった証じゃないか。
人は、何者かである以前に、自分という一人の人であるんだから。