道ログ2

群馬県在住のおじさんがブログを書く

舞台と俺 その1

 どこまで書けるかどうかわかりませんが、時間のない中、少し書いてみたいことがあります。お芝居について。いや。昔劇団に所属していた頃のこと。

 えと、今月、大阪に行くことになりました。一人で。目的は、人に会うため。
 俺は大都会群馬県民です。地元の高校を卒業後、奈良県の大学に進学しました。大学っつっても、「受験すりゃ誰でも入れるような」大学です。そこで、あるサークルで活躍してました。3年生になる頃、そのサークル活動を辞め、劇団に入りました。大阪で活動していた劇団。プラトニック・ファミリィという劇団でした。今はもうありません。俺は大学を卒業するまでの2年間、学校もあまり行かず、劇団の人たちと過ごす事になりました。
 当時の劇団員や関係者に会いたくて大阪に行ってきます。おおよそ、15年ぶりに。です。

 俺は、思えば子供の頃から演劇やお芝居とか、そういうものは好きだったと思います。観るより、やる方が。
 たとえば、国語の授業での本読みとかは、当ててほしかったぐらいだし、そこそこ上手に読めたと思います。また、学芸会みたいなので演劇とかあると、大体、そこそこのキャストに就いていたと思います。人前に出ることは苦手ではなかったし、中学校になって合唱コンクールとかがあれば、男子の中心になって唄っていました。
 そして、高校時代、生徒会や、軟式テニス部と掛け持ちで、演劇部に入ります。市内の高校が集まって上演するお手伝いに行った時に、俺は「ああ。俺舞台好きだ。」と認識したのを覚えています。

 市内で優秀な学校の上演を、舞台袖で手伝っていたとき。終焉と同時に緞帳がおり、拍手の降り注ぐ客席と、カーテンコールが終わったキャストとの間が隔てられ、舞台上、キャストとスタッフが喜びの和を築きました。
 俺はその、緞帳の内側、すなわち舞台の裏側に一気に引きずり込まれました。「俺がしたいのはこれだ。」と。
 これは後になって言葉になって理解することなのですが、俺がその時感じた感覚というのは、「舞台はナマモノだ。」ということでした。俺にとっては舞台=演劇なわけですが、演劇を作り上げるということは、壊すために作りあげる作業の繰り返しです。何ヶ月も、数十人もの人間が、一つのものを作り上げます。たった、2時間前後の、演劇をです。そしてそれは、数回の上演をもってすべて取り壊されます。言葉どおり壊される道具もあれば、演目そのものも、二度と上演されることのない場合もすくなくありません。たったそれだけのために、作り上げます。
 ものをつくるということは、基本的には形に残るものを作ることを指します。芸術系のものはとくにそうで、名作といわれるものは時代を超え、評価され続けます。しかし演劇、いえ、舞台は、まさに生物で、一度限りです。未来に残ることはありません。なぜなら、舞台とは、客席を含んだ空間そのものを指すからです。その場、その時の空気は、後世に残すことはできません。お芝居を作るということは空間を作り、終わったら壊すこと。
 「それだけのために、あれだけの労力を注ぎ込む」ということが、俺にとってはなんだかものすごく儚くて、切なくて、だからこそ、圧倒されるほどに輝いて見えて、身体が震えたんだと思います。

 そんな高校時代の俺は、「大人になったら芝居をやろう。1年でも、2年でもいいから。とにかく、舞台を創ろう。」となんとなく心に刻み込みました。

 そして、大学に入って某サークルでそこそこの場所を任されながら、3年生になる直前、サークルを辞めます。批判もありましたし、未だによかったのか悪かったのか正直分かりません。でも、あの時俺は決めました。芝居をやろうと。卒業してしまったら、俺に自由になる時間は長くない、ということを現実として理解し始めた頃なのかもしれません。
 でも、なにから手をつけていいのかわかりませんでした。とりあえず一時間ほど電車に乗って大阪に行くことから始めました。行ったはいいものの、なにもありません。都会があるだけでした。でも、都会には大きな本屋がありました。そこで、演劇の本を探しました。新書、舞台美術の本、雑誌。目に付くものを買いました。その中に「演劇ブック」がありました。
 演劇ブックを見ていると、音楽雑誌でバンドメンバー募集のページがあるように、劇団員募集のページがありました。俺は、食い入るように読みました。そして、いくつかの劇団に葉書を出し、ある劇団のオークションに応募しました。プラトニック・ファミリィに葉書を出したのもこのときでした。まあ、後悔しています。葉書の書き方にですが。
 いくつかの劇団を見学させてもらって、あと、遊気舎のオーディションに落ちて、結局、プラトニック・ファミリィに入団を決めました。


(つづく)