道ログ2

群馬県在住のおじさんがブログを書く

しゅうきょう

 例によってnakamurabashiさんのところにいました。

  新興宗教(G.A.W)

 あと、TLで話題のこちら

  聖書は正しく、進化論は間違い−クリスチャンは堂々と説明できるべき(Christian Today)

 前者は有名(?)ブロガーであり、俺の知る限り特定の信仰を持たないコンビニ店長さん。後者は初見だけど心臓外科医であり、クリスチャンさん。
 別にどっちがいいとか悪いとかではなくて、たまたま同じ時期に宗教に関する話題を読んだので並べただけ。どちらにも傾聴すべき点がたくさんあった。

 ただまあ、nakamurabashiさんのエントリについては違和感もあって、一言で言ってしまえば宗教と言う言葉の認識かな。信仰と言う点についてはnakamurabashiさんの言うことに違和感はない。宗教を学ぶとまず出てくるのが古代信仰とかだったりする。古来から人間は洋の東西を問わずに自然に対し畏怖を抱いていたため、神格化し、信仰したのだ。その対象は空であったり、太陽であったり月であったり、水や石、木や山なども進行の対象にされた。先代の総理の妻も金星を信仰しているかのような噂も流れた。特に日本においてはたくさんの神々がいる。「八百万の神」というように、台所の道具一つ一つや、掃除道具や、最近ではトイレにも神様がいることが明らかになった。また、神社に祭られているのは昔の天皇だったり、武士だったりする。ただの人間が神として祭られ、ご利益をもたらしてくれるとあがめられる存在になる。
 だから、

漠然とイメージする信仰の原風景というのは、たとえば人が空を見上げたときの言葉を失うような一瞬のことだ。

 信仰と言う言葉についてこういう描写ができるのってすげえなって思うわけです。言語=人智の及ばない存在に出会ったときというものは、信仰への出会いに似ているわけです。

 ところで「新興宗教」という言葉については、いくつかの説があったと思うんですが、日本では新しくない宗教といえばやはり神道や仏教などです。キリスト教儒教なども古いと言っていいのかな。
 江戸末期から明治にかけて新しい宗教が誕生してきます。それがいわゆる新興宗教です。社会の教科書にもでていましたが、明治の3大宗教といえば「天理教」「黒住教」「金光教」です。
 第二次大戦後誕生した宗教教団は「新々宗教」などと呼ばれることもあります。創価学会オウム真理教などもこの部類です。この頃にはいわゆる一般的に毛嫌いされる「宗教」が乱立します。これについて一つの考え方としては、宗教という言葉でくくってしまうと非常に意味が広くなってしまいますので、「宗教法人」という認識するのもいいかもしれません。つまり宗教法人認可をうけたなにやら怪しげな団体、それが、新宗教というジャンルです。もちろん、仏教や神道なども同じ宗教法人なのですが、誤解を恐れずに言うと、怪しい新宗教は、「宗教法人法を利用して金儲けをする団体」であり、それより以前からある教団は「布教や信仰をするために宗教法人法に法って活動している団体」である。と言ってしまっていいんじゃないかと思っています。

 ちなみにうちは天理教の教会なので参考までに書いておくと、天理教においてはそれぞれの教会が単独で宗教法人登録しています。天理教本部も一法人です。うちみたいな吹けば飛ぶような教会も一法人です。上級教会を通じて本部にお供えをしますが、本部はなにもしてくれません。経済的にも、備品一つくれません。そういうものです。批判するつもりではなく、これは現実です。
 で、そうやってお供えをする(お金を払う)わけなんですが、それはなぜかといえば、代々続いてきたからという理由のほかに、われわれには信仰があるから、としか答えようがありません。天理教の神様「天理王命(てんりおうのみこと)」を信仰しているから、その神様への感謝の形として、人間社会で絶対的な価値である金銭をお供えします。また、神様や教会の御用をさせてもらうことにより、時間をお供えします。そういう世界です。
 つまり、宗教法人である以上、根本には信仰が存在しなければ成立しません。信仰する何かがあって、それに対して対価を支払います。あとは、どう信じさせるか、どう信じるかです。これは自由です。ただし、嘘があってはいけません。nakamurabashiさんが「何もないはずのところから集金システムが成立する」という興味をもつのは当然のことで、そこにあるのは、信じるかどうか、信じさせるかどうかでしかありません。nakamurabashiさんは「なんで信じるのか」ということが理解できないと言います。これも当然だと思います。「俺天理教信仰してます」と言う事はできますが「なんで信仰してるの?」って聞かれても相手を納得させる答えをいう自信がないからです。
 ただし、特に新しい宗教などを見てみると、信仰させるテクニックみたいなものはあるようです。最たるものは洗脳だと思いますが、そういう技術も含めて、意図的に信仰させることも不可能ではないということも明らかにしておく必要はあるでしょう。


 あと、キリストと進化論ですが、これ、アメリカあたりではかなりの支持を得る説ですよね。詳しく知りませんが。アメリカは色々な形のキリスト教会があって、かなり近代化していると聞きます。その教えと、進化論は真っ向から対立するようです。だから、

 同氏は日本人のキリスト教に対する考え方として、「イエス・キリストの教えに否定的な人はほとんどいないが、イエス・キリストを通して表される全知全能の神が存在しているということを受け入れることができない日本人が多く、神の存在を受け入れられないことがイエス・キリストを受け入れられないことにつながっているのではないか」と指摘した。

 特に今中氏は「進化論」については「でたらめの新興宗教である」と厳しく非難し、未だに学校教育で進化論が教えられている現状に危機感を募らせ、「進化論」の考えが日本人が神という存在を受け入れるのに大きな妨げになっていると警告した。

 こういう意見そのものは、真っ当な主張であると思います。いえ。医師としてではなく、クリスチャンとしてです。ただ、これはキリストに限っただけではなく、特に前段を言い換えても違和感がありません。

日本人の宗教に対する考え方として、「宗教に否定的な人はほとんどいないが、誰かを通して表される全知全能の神が存在しているということを受け入れることができない日本人が多く、神の存在を受け入れられないことが宗教を受け入れられないことにつながっているのではないか」と指摘した。

 で、おそらく今中氏が言いたいのは、進化論は引き合いに出しただけであって、

そのためにも神様がおられることが信じる前提になるのだから、この神様の存在をきちんと証できるクリスチャンでなければならない」と強調し、ノンクリスチャンで聖書も神様も否定する日本人の同朋に向けて、神様がおられることの「理解・納得できる根拠を示していくことが大切である」と述べた。

 これだけです。ただ祈りをささげるだけではなく、世界の平和、隣人の安らぎを願うために、全知全能の神の存在を知らしめなければならない。それはいち早く神の言葉に触れた者の使命でもあるからだ。ということを言いたいだけでしょう。進化論を否定することは理解できませんが、神の存在を教え、信仰することにより訪れる幸せに一人でも多く導いていくべきだ、という言葉は、天理教信者である私も大きくうなずく部分です。
 キリスト教はやっぱり素晴らしいです。


 ところで、宗教を論じる場合に、「何かと比べて」というアプローチがあります。たとえば、天理教を語るなら、仏教なら、キリスト教なら、というように、同じ現象や考え方などを捉えて、どう違うかということを明らかにし、天理教についての知識を深くするようなやり方です。
 比較的信仰の浅い人たちがよく知りたがることでもあるのですが、こういうやり方は至極当然の方法です。宗教学を学ぶ際にも初期に「比較宗教学」というものを勉強します。仏教とキリスト教イスラームを比較してみて、互いの理解を深めていきます。そうしてから、それぞれについて、単独で掘り下げていきます。ごく自然な流れです。
 ですから、「よそは関係ない!」と突っぱねるのではなく、きちんと簡単に説明してあげることが必要です。そうすることで、より自分の信仰が深められることになるのです。


 以上、なんだか今日はまじめに書いてみましたが、何を書いたのかよくわからない状態であります。