道ログ2

群馬県在住のおじさんがブログを書く

きたない俺ときれいな俺

今日仕事から家に帰り、車を降りたらふと夜空が見えた。
小さい頃習った冬の星座がハッキリ見えるような、冷え切った、きれいな冬空だった。
オリオン座、北斗七星、北極星、とか色々。

 >そういえば空を見上げるなんて久しぶりだなあ。

 と思った。

 高校生の頃、手紙を書くことが好きだった。いや。手紙だからなのかわからないが、誰かに何かを書くのが好きだった。
 当時の俺ならきっと、
 >こんなにきれいな冬空を見た。

 とか
 >冬の夜の澄んだ空気の、星空を見た。

 ということを元に、見上げている自分の状況とそれに関わることなどをつらつらと書いたに違いない。
 >とてもきれいな空を見たよ。
 ということを、なんとか伝えたく思っただろう。

 それが今の俺はというと違うな、と星空を見上げながら思った。
 >とてもきれいな星空を見ました。昔ならそれをネタにきれいな話にもってくところ、今や書くことはありません。
 とか
 >とてもきれいな星空でありながら、どっちかっていうと、きれいじゃない現実の方がとてもとても気になります。

 などと、遠慮して描写してもその程度に落ち着くだろう。

 そんなことを思いながら思った。
 じゃあ、俺は汚くなったのか? 
 そんなに昔の俺は綺麗だったのか?

 考えてることは根本違ってはないと思うんだよね。
 じゃあ、そのアウトプットの違いは何かってことになってきて、それは結局インプットとの兼ね合いも含めて、現実的になってきたということに他ならないかと。

 すげえ綺麗だったよ今日の夜空。みた?

 で満足できていた俺は、同じ星空を観ても

 今日は星が綺麗だなあ。冷え込んでるってことだなあ。さて。夕飯はなんだろう。

 という。

 星空が綺麗であること、勿論毎日の日常にあふれている星空の綺麗さなんかは、慣れからきているのだろうがルーティンの中として処理される。それがたとえ久しぶりに見えた星空であったとしてもだ。

 ああ。わからんくなってきた。
 つまりここではほんとのアウトプット。それをみた俺がどうそれを吐き出すかということを比較することだった。

 高校生当時の俺ならば勿論、もちろんネットなどない、パソコンなどない、ワープロなどない、全部手書き、便箋と封筒、切手貼ってポストに投函する、あれだ。
 そこに、タダ一人読んでくれるであろう相手に、
 「今日はね、すごく星が綺麗だった。そうだな。突き抜けるくらい高く高く見える夜空に、冷たい空気、そう、その冷たい、氷の中に立たされているような空気の中でただ呆然と見上げた空が、星がたくさんで、綺麗だった。それを見ていて思ったんだ。」
 とか語り始めただろう。若いしね。きっとね。

 で、今の俺ならどうかなって考えてみたんだよ。
 たくさんの星を見上げながら身が引き締まるような冷たい空気の中、立ち尽くして。
 そうしたら、

 「ちょうさみー。星空きれいとかどーでもいー。俺なんでこんなどーでもいいことに昔感動してたんだべ。つーかさみー。早くKSK抱っこすんべ。つーかはらいてえ。うんこしてえ。」
 
 とか思ってた。
 最低な大人だなと自戒しつつ、でもなんとなく分かったことがあって、

 同じ現実に(同じじゃないが)向き合ったときに若くてピチピチだった俺は綺麗なものをより綺麗に綺麗に切り取ろうとして必死であったおことがわかったし、
 今の俺は綺麗なこととかどうでもよくて、そんな現実であろうがなかろうが俺は俺であって、むしろどっちかっていうと汚い自分をさらけだして吐き出して自分がなんぼのもんか知りたいんだという、そういう心境なんだと思った。

 どっちも俺だしどっちも時代が違うので突っ込み合いはなしだし。
 どっちが正しいとも間違っているとも思わないし。

 十年後の俺が今の俺を見てどう思うかってのも、今の俺にはあんまり興味ないことだし。
 俺は俺で、それ以上でもそれ以下でもない。

 それでいいだろう?