道ログ2

群馬県在住のおじさんがブログを書く

震災を忘れない。

 ゆんべ、テレビドラマを観ていた。神戸新聞社の、嵐の桜井君主演のドラマ。某所より引用。
以下某所より引用

神戸新聞社のドラマ

悪くない

よくもない

まあ新聞社という報じる側を報じてみても伝わりにくいということが一つ

時間的制限が一つ

落とし所に無理があるのが一つ

他の役者さんたちが当時の記者さんたちに見えるなか桜井くんだけが桜井くんにしか見えないところが一つ

そして揺るぎない事実が一つ

どこをどう切り取ってみても、いい話になどなるはずがないという現実だ

残念ながらあの震災は、俺達が生きている間にも

「昔関東大震災ってのがあってね」

という昔話になってしまうという、もう一つの現実

傍観者ながら、忘れないよ

がんばろう神戸

忘れない

以上某所より

毎年言うが、俺はあの時大阪にいた。大学生だった。
寮のある天理市は震度4だと報道された。
俺がいたところは震度6とも6強とも言われていた。
ローボードの上の小さなテレビは落ちてきたし、マンガ本がびっしり詰め込まれた本棚があっさりと倒れ、外に出ると道路のアスファルトが無残にもひび割れていた。
その朝、電車は動かなかった。
自分がそんな状況だから、実家に電話をした。つながらなかった。
よくわからなくて、なんとか無事を伝えないといけないと思い、思いつくところに片っ端から電話をした。
心配をしてほしくなかった。

当時結婚していた姉の家に運良くつながった。
群馬県民はほのぼのとしていた。

「どしたんー?」

朝からの突然の弟の電話に、嬉しそうに答える姉がいた。
何を話していいのかも分からずに。
「俺は無事だ。生きてる。何もない。それを、伝えてくれ。テレビ見れば俺の言ってる意味がわかるから。」

ネタでもなく誇大でもなく、俺のいたところから、
時間と共に空を染める西の空は見えていた。

だがその時はまだ俺の中でも阪神大震災はテレビの中のことであり、想像すらできない状況だった。
芦屋までJRが開通した日、俺は、神戸の町で、現実を知った。
つまりそれは、神戸の皆さんは、とてもじゃないが想像以上の時間を過ごしたに違いないと思ってもとても足りないということだ。

俺はその後天理教学生担当委員会が発行する「はっぴすと」という冊子の総力特集を読んで、心がびくびく震えたことを忘れられない。

がんばろう神戸

と言われる。聞いたことがある。
だが、そのほんとのところを、俺達は全然理解していない。

あんときどんだけ神戸のみんなががんばったか。
それを、俺も含めみんな、知らなすぎるんだよ。
そして、なにより俺達が考えなきゃいけないことがある。
阪神大震災から15年」と、当時を振り返るはいい。
と同時に、被災された皆さんは今、どうしていらっしゃるだろうと。考えなきゃいけない。
心の傷は、完全に癒えることはないし、それでも前を向いていかなきゃならない。

「あの時は大変だった。」って言って終わりになる俺達とはちがう、ほんとの被災者の方々の今を、想像して初めて、

「あれから15年。」と、言っていい。

尊敬しなきゃいけない。神戸の皆さんを。
きっとあのときを生き今を生きる神戸の皆さんは、どこかで何かがあれば、救いの手を伸ばしてでも差し伸べられるだろうて。